城南大空襲(広義での東京大空襲)に遭い、死体だらけの焼け野原の中、命からがら生き延びたという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんは、その後、玉音放送により終戦を知ると、嬉しくて嬉しくてたまらなかったといいます。
「毒蝮三太夫は少年時代に死体だらけの焼け野原を避難していた!」からの続き
防空壕のフタを外すも・・・
空襲が終わると、やがて、大人たちが、トタン板でフタをしたままの防空壕(ごう)の板を外す作業をしたそうで、毒蝮さんも、大人たちに混ざって手伝ったそうですが、
(うまく防空壕から這い出て来る人もいたそうですが、中から開けられないのか、まだ閉まったままの防空壕があったそうです)
お母さんが、ある防空壕のフタ(トタン板)をどかし、入り口を開けると、中には、5人の人が並んで座っていたそうで、
空襲、終わりましたよ
と、呼びかけたそうですが、
みな驚いたように顔を上げてこちらを見たまま動かなかったそうです。
防空壕の中の人たちは目を開けたまま亡くなっていた
そこで、お母さんが、もう一度、
空襲は、終わりましたよ
と、言ったそうですが・・・
お母さんは、その直後、ぐっと口をつぐんだのだそうです。
というのも、その人達は、目を見開いたまま、防空壕の出口を見つめて亡くなっていたのでした。
(燃える焼夷弾が大量に酸素を使ったため、防空壕の酸素も吸い出され、窒息死していたそうで、その人たちには、やけどの痕も傷もなかったそうです)
9歳の時、玉音放送で終戦を知り内心大喜びしていた
その後、(家が焼けてしまった)毒蝮さん一家は、親類宅を転々とし、最終的には、空襲で焼けただれた東京を離れ、お父さんの実家がある神奈川県戸塚の汲沢(ぐみざわ)に縁故疎開し、お父さんが山の窪地に建てた小屋で生活したそうですが、
そんな中、毒蝮さんは、1945年8月15日、9歳の時、疎開先の汲沢で、ラジオから流れる玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞いたそうで、
(ラジオから流れる言葉は難しく、詳しくは分からなかったそうですが、戦争が終わったことを告げていたのは理解できたそうです)
周囲の大人たちは、ため息まじりにどよめいたり、泣き出す人もいたりで、ただならぬ重い空気がただよっていたそうですが、
毒蝮さんは、うれしくてうれしくてたまらなかったそうで、
これで戦争はおしまい、空襲はもうやってこない、焼夷弾を落とされ、街や家を焼かれて、熱くて痛くてヘトヘトになって逃げ回る惨めな思いをしなくていい・・・
と、跳び上がりたいくらいうれしかったそうです。
(とはいえ、毒蝮さんは、周りの空気を察し、その喜びは表には出さず、黙ってじっとしていたそうです)
「毒蝮三太夫のデビューは中1の時の舞台「鐘の鳴る丘」!」に続く