ジャイアント馬場さんと親交を深めるうちにプロレスが好きになり、プロレスの実況に情熱を注ぐようになったという、徳光和夫(とくみつ かずお)さんは、その後、朝の情報番組「ズームイン!!朝!」の司会を経て、1988年には、ニュース番組「NNNニュースプラス1」の初代キャスターに抜擢されるのですが、翌年の1989年には、日本テレビを退社します。

「徳光和夫は昔ジャイアント馬場を本気で怒らせたことがあった!」からの続き

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朝の情報番組「ズームイン!!朝!」の司会に抜擢される

入社2年目の1964年にプロレス担当になった当初は、嫌々、プロレス中継をするも、ジャイアント馬場さんの魅力に惹かれ、徐々にプロレス自体も好きになっていったという徳光さんは、その後、局内でも認められるようになっていったそうで、

1969年10月には、(プロレス中継のかたわら)「NTV紅白歌のベストテン」の総合司会に抜擢されると、

以降、

1973年10月「金曜10時!うわさのチャンネル!!」
1974年10月~1977年9月「新・底ぬけ脱線ゲーム」
1977年10月~1978年9月「ハテナ?ドンぴしゃ!」

など、次々とゲームやクイズ番組の司会に起用され、


「NTV紅白歌のベストテン」より。(この番組は1981年まで続く長寿番組となっています)

1979年3月には、朝の情報番組「ズームイン!!朝!」の司会に抜擢されると、1988年3月まで9年間も担当し、お茶の間の朝の顔として人気者となります。


「ズームイン!!朝!」出演時の徳光さん。

(ちなみに、徳光さんは、「ズームイン!!朝!」時代、テレビ局の近くにマンションを借り、毎日の放送に備えていたそうですが、寝坊し、上半身はポロシャツ、下はパジャマのままで出演したこともあったそうです(笑))

「NNNニュースプラス1」をきっかけに日本テレビを退社しフリーに

そんな徳光さんは、1988年4月には、「NNNニュースプラス1」の初代キャスターに起用されると、3年半続けているのですが、日本テレビは、その途中の1989年に退社しています。(以降、フリーとして活動)

というのも、徳光さんは、その時、既に48歳で、アナウンス室副部長という肩書がついた管理職だったそうですが、人や物を管理する能力が全く無いと自覚していたことから、年齢的にこの先、ますます管理職としての仕事が比重を占めていった時、どうしたいのか、どうすべなのか、と考えるようになっていたそうで、

「うわさのチェンネル!!」に起用してくれた赤尾健一さんや、日本テレビの先輩の後藤達彦さんに相談したところ、

やっぱりそろそろ徳光、思いっきり羽根伸ばすにはフリーだぞ

と、言われ、一気に心が傾き、退社したのだそうです。


「NNNニュースプラス1」出演時の徳光さん。

日本テレビに不満はなかった

ただ、徳光さんは、これらのアドバイスを受けるまでは、フリーになろうとは全く考えていなかったといいます。

実は、それまでに、「ズームイン!!朝!」をやる前と「ズームイン!!朝!」の人気が出てきた時の2回、芸能界の大物マネージャーから独立するよう口説かれたことがあったそうですが、2回とも、サラリーマンを望む奥さんに反対されたこともあり、断っていたのだそうです。

というのも、日本テレビでは、残業手当や早朝手当もしっかりついていたうえ、結婚式の司会等のアルバイトもでき、裕福で自由だったことから、居心地が良く、不満がなかったのだそうです。

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久米宏にも感化されていた

そんな中、月曜から金曜の夕方のニュース「NNNニュースプラス1」のキャスターに起用されたことで、それまでニュースに関してはズブの素人だったのが、次第に、ニュースも仕切れるという評価を得られるようになり、アナウンサーとして願ってもない立場になると、

1985年には久米宏さんが「ニュースステーション」を始めたことにも感化され、最終的には、自分もキャスターを目指そうと日本テレビを退社したのだそうです。

(ちなみに、退職金は、バブルでもあったことから、26年勤務で1710万円出たそうで、もらい過ぎかなと思ったそうです)

「徳光和夫が日本テレビ入社当初はダメアナウンサーの烙印を押されていた!」に続く

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