山口百恵さんに提供した「横須賀ストーリー」が大ヒットとなった、宇崎竜童(うざき りゅうどう)さんは、その後も、自身のバンドのツアー、テレビ出演、映画出演をこなしつつ、次々と山口さんに曲を提供し、山口さんの黄金時代を支えます。
「宇崎竜童は山口百恵本人からのオファーという噂を信じていなかった!」からの続き
山口百恵に提供した「プレイバック part2」が大ヒット
山口百恵さんに提供した「横須賀ストーリー」が大ヒットとなった、宇崎竜童さん&阿木燿子さん夫妻は、その後も、山口さんが引退する1980年まで、
「夢先案内人」(1977)
「イミテーション・ゴールド」(1977)
「プレイバック part2」(1978)
「乙女座 宮」(1978)
「絶体絶命」(1978)
「美・サイレント」(1979)
「しなやかに歌って」(1979)
「ロックンロール・ウィドウ」(1980)
「さよならの向こう側」(1980)
ほか、ヒット曲を含む全68曲もの楽曲を提供し、山口さんの黄金時代を支えるのですが、
中でも、シングル「プレイバック part2」(1978年5月1日発売)は、66万枚を売り上げる大ヒットを記録し、”馬鹿にしないでよ”の台詞が日本中で大流行。
これにより、宇崎さん&阿木さん夫妻も作曲家・作詞家として不動の地位を確立します。
「プレイバック part2」は瞬時にできた曲だった
ただ、この「プレイバック part2」、翌日にはレコーディングしないとプレスに間に合わないという状況の中で出来上がった曲だったそうで、
宇崎さんは、
特に面白かったなっていう曲のひとつは、『プレイバック part2』。実は、パート2は急に制作が決まって「明日までに作ってください」と言われ、ひと晩で書いたんです。
何か月もらってもできないときはできないのに、できるときは瞬間にできてしまう。これは面白いですね。ああこういう作り方もあるんだ、って。
と、語っています。
1ヶ月で38曲作曲したことも
また、前作を超えるクオリティーにしなければいけない、必ずヒットさせなければいけない、というプレッシャーの中での制作だったそうで、いつも頭の中で山口さんの曲が鳴っていたそうですが、
宇崎さんは、
百恵さんには60曲以上書きました。当時は新曲を出すタイミングは4か月に1回、アルバムも年に1、2枚出していたので、常にローテーションが組まれ、とにかく作り続けていた感じです。アルバムは12曲中6曲書いてくれなんて言われる。
その間、バンドのツアーで80~90日全国を回ったり、テレビ出演、取材対応、仕事の打ち合わせ、映画出演までしていた。曲を作る時間といったら寝る時間を削るしかない。あるいはツアーの移動中やホテルの中。
78年だったと思いますが、百恵さん以外の曲も含めひと月で38曲くらい書いた月があった。月の日数より書いた曲数の方が多い(笑)
3時間しか寝ない日もありました。若かったからできたんですね。でもプレッシャーと思うより、面白がっていた。苦しさより楽しさのほうが大きかったですね。
と、語っており、そんなプレッシャーを楽しんでいたのだそうです。