写真家の篠山紀信さんとのコラボレーションで、たちまち、世間にその名を広めた、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、すんなり事が運んだ訳ではなかったといいます。
「坂東玉三郎は篠山紀信によって更なる大ブレイクとなっていた!」からの続き
篠山紀信と写真集を作ろうと盛り上がる
1970年、写真家の篠山紀信さんと知り合い、すぐに意気投合し、友達になると、同年には、国立劇場での「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の舞台で、初めて写真撮影をされた坂東さんは、その後、篠山さんから、ずっと坂東さんの写真を撮り続けたいと申し出があったそうで、坂東さんも、それなら写真集を作ろうと言い、話が盛り上がったそうですが、
この時、篠山さんはまだ若く、無名のカメラマンだったことから、坂東さんの師匠で養父の守田勘弥さんは、坂東さんに変な虫がついたのではないかと怪しみ、時には胡散臭(うさんくさ)そうに、時には注意深く、二人の動向を見張っていたそうで、写真集を作ることは、そう簡単にはいかなかったそうです。
養父の守田勘弥に激怒され篠山紀信は出入禁止になっていた
それでも、坂東さんと篠山さんは、そんなことは一向に気にせず、舞台が終わった後、背景の絵の一部だけをポツンと舞台に置き、その前でポーズをとるほか、誰もいなくなった楽屋で障子をはずしてローソクの光だけで撮影するなど、これまでの歌舞伎写真にはない、画期的な試みをしたそうで、そのことが面白く、たくさんの写真を撮ったそうです。
しかし、このことに、勘弥さんは激怒し、篠山さんは出入り禁止、坂東さんは実家に帰らされて謹慎させられてしまったのだそうです。
篠山紀信の写真を見て養父の守田勘弥は心を動かされていた
それでも、写真を雑誌に掲載することは禁じられなかったことから、篠山さんがこの時撮った写真を「芸術生活」という雑誌に掲載すると、
後日、篠山さんは、その写真を見た勘弥さんに、楽屋に来るように言われ、楽屋を訪れると、勘弥さんからは、伝統の世界での礼儀と心構えを教えられたそうで、
このことをきっかけに、篠山さんは坂東さんとのコラボを再開することができ、その後、写真展の開催、写真集の出版をすることができたのだそうです。
(勘弥さんは写真を見て心を動かされ、二人のコラボを許したのだそうです)
養父の守田勘弥は写真集出版で歌舞伎界の反発を食らうことを心配していた
ちなみに、写真集「女形 玉三郎」の巻末には、守田勘弥さんによる、あとがきが掲載されているのですが、
勘弥さんは、
いままで世に出ている写真集は、いずれも一代の名優とうたわれたものばかりです
(その逆である「ヒヨコ同然の玉三郎」の写真集の話は断わるべきだったのかもしれないとし)この本は、いわば 篠山紀信氏の作品集であり、できばえのよさは、ひとえに篠山氏の実力によるものです
万が一にも、玉三郎が四十、五十歳代になって、いくらかでもよい俳優となれたときに、みなさまがあらためてこの本を開かれ、「いまでこそなんのかのといわれているが、どうだい、若いころのこのまずさは。なんて悪い形をしているんだろう。この時代からみると、ずいぶん変わったものだねえ」と、言われるための写真集が、この世に一冊くらいはあってもよいのではなかろうか、と・・・、よろしくお願いしたいと、ご返事申し上げたわけです。
と、(あとがきとは思えないほどの)異常なほどにへりくだっています。
というのも、勘弥さんは、坂東さんの写真集出版の企画を聞いた時、それが反響を呼び、歌舞伎界の反発をくらうことを予測しており、坂東さんは売り出したいものの、歌舞伎界からの妬みや嫉妬からどのように坂東さんを守るべきか、苦悩していたのでした。
また、坂東さん自身も、公式サイト(2007年1月)で、
当時、父14世守田勘弥が健在で、「この若さで写真集を出すということは、おこがましい」と大変心配しておりまして、いささか躊躇したのですが、父も説得され篠山先生も大変好意的に写真を撮ってくださり、若者の写真集を出すということで、皆納得をし出版させていただいたわけです。
と、綴っており、
写真集を出版するにあたり、周囲に心を砕いていたことが伺えます。
「坂東玉三郎は昔シェイクスピア劇「マクベス」でも大ブレイクしていた!」に続く