1955年、助監督だった23歳の時、同じ「松竹」の女優だった小山明子さんと交際をスタートすると、5年後の1960年に結婚した、大島渚(おおしま なぎさ)さんですが、今回は、妻の小山さんから見た、素顔の大島さんのエピソードをご紹介します。
「大島渚の妻・小山明子との馴れ初めは?」からの続き
妻・小山明子は学歴にコンプレックスを抱いていた
1955年、映画「新婚白書」の撮影現場で知り合うと、5年の交際を経て、1960年に結婚した、大島さんと女優の小山明子さんですが、
小山さんによると、新婚時代には、毎晩のように、大島さんの映画仲間が自宅にやってきて、難しい映画談義ばかりを繰り広げていたそうで、
小山さんは、女優の仕事が終わって家に帰ると、その人たちに食べ物を作って出すことはできても、その議論に加わることができず、(大学を出ていないこともあり)コンプレックスを抱えていたそうで、
あるの日のこと、小山さんが、大島さんに、
あなたは結婚する相手を間違えたわね。こういう議論に加われる、大学出の人を選べばよかったのに
と、言うと、
大島さんは、
あなたは撮影所という大学に5年間通って、立派に卒業しているじゃないですか。それで僕は十分です
と、言ってくれたそうで、
小山さんは、その言葉に感動し、あらためて、
やっぱり、この人についていこう
と、思ったのだそうです。
家庭では穏やかだった(声を荒げたことは一度もなかった)
また、大島さんは、よく、テレビの討論番組で、「バカヤロー」と叫んでいたため、しょっちゅう怒鳴っている人と思われがちだったそうですが、これは、テレビ用のキャラクターだったそうで、家では声を荒げたことは一切なく、穏やかな人だったそうです。
さらに、学歴はもちろんのこと、どんな人とも、偏見を持たずに平等に付き合うことができる人だったそうです。
妻・小山明子が語る大島渚との思い出
そんな大島さんとの思い出について、小山さんは、
その後、大島の映画が海外で評価されるようになって、私たち夫婦は何度もカンヌに行きました。中でも印象深かったのは、やはり『戦場のメリークリスマス』(1983年)のときですね。
山本寛斎さんがデザインしてくれた赤と黒の思いっきりハデなTシャツをみんなで着て街を歩いたら、それが現地でものすごく評判になって。とても楽しく、懐かしい思い出です。
と、語っているのですが、
大島さんは、交際中、小山さんへのラブレターに書いた「世界で通用する監督になって君をカンヌに連れて行く」という約束を、見事、果たしていたのでした。