大学の映画サークルで自主映画を作り始めることから始まり、俳優、助監督を経て、1995年、長編映画「ゲルマニウムの夜」で監督デビューすると、以降、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」「さよなら渓谷」などの作品を次々と発表し、国内外で高い評価を受けている、大森立嗣(おおもり たつし)さん。
そんな大森立嗣さんは、高校生までは、”表現すること”が好きではなく、野球や空手に夢中だったそうですが、大学進学後、勧誘されて入部した映画サークルで、様々な映画を観たことがきっかけで自主制作映画を作り始めるようになったといいます。
今回は、大森立嗣さんの高校時代(生い立ち)から俳優時代までをご紹介します。
大森立嗣のプロフィール
大森立嗣さんは、1970年9月4日生まれ、
東京都の出身、
身長172センチ、
体重72キロ、
靴のサイズは26.5センチ、
胸囲94センチ、
胴回89センチ、
血液型はA型、
学歴は、
東京都立豊多摩高等学校
⇒駒澤大学文学部社会学科卒業
趣味・特技は、水泳・読書、
ちなみに、「大森立嗣」は本名です。
大森立嗣の父親は麿赤兒、弟は大森南朋
そんな大森立嗣さんは、
お父さんが、俳優で舞踏家の麿赤兒さん、
お母さんが、”凮月堂の女王”と呼ばれた小林桃枝さん、
弟が、俳優の大森南朋さん、
義理の妹(弟の妻)が、女優の小野ゆり子さん、
という、俳優一家です。
(左から)大森立嗣さん、お父さんの麿赤兒さん、弟の大森南朋さんの3ショット。
大森立嗣は高校生までは”表現すること”が好きではなかった
大森立嗣さんは、お父さんの麿赤兒さんとお母さんの小林桃枝さんの間に、2人兄弟の長男として誕生するのですが、
高校生までは、お父さんが俳優であることを意識して、”表現すること”が好きではなく、文化祭の映画作りなどにもあまり参加しなかったといいます。
(それよりも、野球や空手に熱中していたそうです)
大森立嗣は大学で映画サークルに入部し映画を自主制作していた
ただ、大学入学後、新歓(新入生歓迎)で、いろいろなサークルに声をかけてもらう中、映画サークルが、話していて一番しっくりきたそうで、映画サークルに入部したそうです。
(テニスサークルなどは苦手意識があったため敬遠したそうです)
とはいえ、映画に興味があったというよりは、楽しそうなサークルの人たちに興味を持っての入部だったそうですが、
入部後、様々な映画を観て、自由な価値観にふれ始めると楽しくなり、次第に、映画を作り始めるようになったそうで、
大森立嗣さんは、当時を振り返り、
制作をする時にも、皆で順番に、俳優をやったり監督をやったりで楽しかったですよ。その頃と今で、制作の規模は変わりましたが、やっていることは同じだと思っています。
と、語っています。
大森立嗣は大学卒業後は俳優、助監督として活動していた
そんな大森立嗣さんは、映画を自主制作をしていた流れで、大学卒業後は、
- 1993年「我が人生最悪の時」
- 1994年「トカレフ」
- 1996年「That’s カンニング」
- 1998年「流星」
- 2000年「タイムレスメロディ」
などの映画に、俳優として出演していたそうですが、
やはり、俳優よりも、裏方に関わりたいと思うようになったそうで、
荒井晴彦さん、阪本順治さん、井筒和幸さんらの現場に助監督として参加しながら、監督になるための修行を積んでいったのだそうです。
「【画像】大森立嗣の若い頃は?デビューからの監督作品(映画ドラマ)や経歴は?」に続く
社会の闇や人間の深層に切り込む骨太な作品から繊細な人間ドラマまで幅広く手掛け、常に観る者に問いかけ、考えさせる作品を発表し続けている、大森立嗣(おおもり たつし)さん。 今回は、そんな大森立嗣さんの、若い頃(映画監督デビ …