1972年、舞踏集団「大駱駝艦」を立ち上げて以来、50年以上に渡り、全身白塗りで踊り続け、「ツィゴイネルワイゼン」「どついたるねん」「キルビルVol.1」などの映画にも出演し、強烈な存在感を放っている、麿赤兒(まろ あかじ)さん。

そんな麿赤兒さんは、2歳の時にお父さんが戦死したことでお母さんが精神を病み、小学5年生の時には叔父さん夫婦の家に預けられたそうですが、

そんな中、中学生の時に演劇部を設立すると、純粋に演劇が好きというより、似たような境遇の仲間と一緒にいるのがとても楽しかったといいます。

今回は、麿赤兒さんの幼少期(生い立ち)から劇団「変身」を退団するまでをご紹介します。

麿赤兒

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麿赤兒のプロフィール

麿赤兒さんは、1943年2月23日生まれ、
石川県金沢市の出身、

身長170センチ、

学歴は、
奈良県立畝傍高等学校
⇒早稲田大学第一文学部哲学科中退

だそうです。

麿赤兒の本名は?芸名の由来は?

ちなみに、麿赤兒さんの本名は、「大森宏」(おおもり ひろし)というそうですが、

芸名の「麿赤兒」の由来は、唐十郎さんの影響によるものだそうで、

麿赤兒さんは、

奈良の三輪山の麓で育ったんで、そこらへんの石碑にある柿本人麻呂の「まろ」や、山部赤人の「赤」が意識の奥底にあったんですが、

唐さんの芝居のチラシを見ると、涙十兵衛(ルイ・ジュヴェ)とか、骸馬二(がいうまじ)とか、面白い芸名がいっぱいあったんで、その方式に則ったわけです。

と、語っています。

麿赤兒は2歳の時に父親が戦死していた

麿赤兒さんは、大日本帝国海軍の軍人(中佐)だったお父さん・潤一さんとお母さんの裕子さんのもとに誕生したそうですが、

1944年、麿赤兒さんが2歳の時、お父さんは、サイパンの少し南に位置するテニアン島での戦いの際、手榴弾で自決したといいます。

麿赤兒は小学5年生の時に母親が精神を病み叔父夫婦の家に預けられていた

そして、その後、そのことを知った麿赤兒さんのお母さんは、精神を病んでしまったそうで、

麿赤兒さんは、父方の祖母の家に預けられ、その後、小学5年生の時には、奈良県三輪山の叔父さん夫婦の家に預けられたそうです。

また、同じ頃、麿赤兒さんは、結核を患って入院したそうですが、同じ部屋だった入院患者の影響で、文学や演劇に興味を持つようになったそうです。

麿赤兒は中学1年生の時に演劇部を設立していた

そんな麿赤兒さんは、中学進学後は、演劇部を作り、1年生にして部長を務めたそうですが、

演劇部には、同じような境遇の子供たちが集まり、しゃべっているうちにどんどん解放され、カウンセリングクラブのようになっていったそうで、

純粋に演劇が好きというよりも、似たような仲間たちと疑似家族のようになったことで、家に帰りたくないほど学校が楽しくて仕方なくなったのだそうです。

(叔父さん夫婦の家ではかわいがってもらったそうですが、それでも、他人の家であることに変わりはなかったそうです)

麿赤兒は中学生の時にチェーホフの「熊」、木下順二の「夕鶴」「彦市ばなし」などを演じていた

また、中学校には立派な図書館があったことから、麿赤兒さんは、そこで、チェーホフやイプセンなどの戯曲を、よく分からないながらも読んでいたそうで、

演劇部では、チェーホフの「熊」で、酔っ払いの親父の役、木下順二の「夕鶴」で、与ひょう役、同じく木下順二の「彦市ばなし」で、彦市役を演じたそうです。

麿赤兒の高校時代は演劇に夢中になるもほとんど現実逃避の感覚だった

そして、麿赤兒さんは、高校進学後も、演劇部に入部し、お芝居に夢中だったそうですが、

ほとんど虚構世界への現実逃避のような感覚だったといいます。

麿赤兒は大学中退後に「ぶどうの会」⇒劇団「変身」

そんな麿赤兒さんは、高校卒業後は、早稲田大学第一文学部の哲学科に進学したそうですが、

その後、中退し、女優の山本安英さん主宰の「ぶどうの会」に研究生として入会したそうです。

(麿赤兒さんは、大阪で山本安英さんの「夕鶴」を観た際、山本安英さんの、幽霊のような霞んでいる立ち姿に惹かれたのだそうです)

ただ、「ぶどうの会」では、上の人たちが「演劇と政治の関係はどうあるべきか」などの難しい話ばかりしていたそうで、やがて、それに嫌気が差し、

入会して半年経った頃、「ぶどうの会」が解散・分裂した際には、若手の劇作家で演出家の宮本研さんと竹内敏晴さんが結成した劇団「変身」に入団したのだそうです。

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麿赤兒はモリエールの「ドン・ジュアン」の主役に抜擢されるも警察に勾留されていた

すると、麿赤兒さんは、劇団「変身」では、モリエールの「ドン・ジュアン」の主役に抜擢されたそうですが、

公演初日の前の夜、淀橋警察署から「任意でいいから出頭せよ」という通知が来たそうで、素直に淀橋警察署に行くと、そのまま収監されてしまったそうで、

(1年前に新宿の路上で喧嘩をしたという理由だったそうです)

2日ほど勾留された後、釈放されたそうですが、大事な初日に穴をあけたことで、劇団から総スカンを食らってしまったのだそうです。

そんな中、麿赤兒さんは、劇団になんとなく嫌気が差し、新宿にある「風月堂」という喫茶店で1日過ごすようになったといいます。

「【画像】麿赤兒の若い頃から現在までの出演ドラマ映画ほか経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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