商社に務めるかたわら、ハワイアンバンド「カルア・カマアイナス」で活動するお父さんのもと、東京・目黒に誕生した、雪村いづみ(ゆきむら いづみ)さんは、音楽好きだったお父さんの影響を受けて、音楽に恵まれた裕福な環境で育ったそうですが、お父さんが自殺したことで生活が一転したといいます。
幼少期は音楽と英語に恵まれた環境で育つも・・・
雪村さんは、名家の出身だったお父さん・愛三さんとお母さん・千恵子さんのもと、3人兄弟(妹と弟)の長女として、東京・目黒にある裕福な家庭に誕生すると、ハワイアンバンドで活動するほど音楽好きだったお父さんの影響を受け、戦時下においても、蓄音機でレコードをかけ、モダンな音楽が日常的に流れている中、お母さんのドレスを着て歌を歌うなど、音楽に恵まれた環境で育ったそうです。
(お母さんもまた、歌がとても上手だったそうです)
また、英語が堪能で優秀だったお父さんの知り合いで、進駐軍の関係者が家に出入りしていたこともあり、生の英語が飛び交うような家庭だったため、雪村さんは、日常的に、英語にも触れる環境で育ったのだそうです。
父親が自殺後は経済的に困窮
しかし、1946年、雪村さんが9歳の時、お父さんが、35歳という若さで、突然、自殺し、生活が一転。
お母さんは洋裁店を開いて生計を立てようとしたそうですが、経営はうまくいかず、さらに、1952年には、お母さんが経営する「東興映画」も倒産し、一家は経済的に困窮したそうです。
(お母さんは、日本初の女性プロデューサーで、映画「三太物語」を制作しています)
お手伝いさんの募集を知り訪ねて行くも断られていた
そこで、雪村さんは、家計を支えるために、高校進学をあきらめて働くことを決意すると、
(高校受験には合格し、進学する高校も決まっていたそうですが、学費が払えず、入学を断念したそうです)
中学卒業後は、麻布の知り合いのアメリカ人家庭がお手伝いさんを募集していることを知り、雇ってもらおうと訪ねたそうですが・・・
雪村さんはか細く小柄だったことから、「あまりにも小柄でか細くて可哀想で使えません」と、断られてしまったのだそうです。
ダンスホール「フロリダ」で英語の歌「ビコーズ・オブ・ユー」を歌うことを思いつく
そんな雪村さんは、その帰り道、がっかりして、新橋にある、お母さんの知り合いがやっていた「フロリダ」というダンスホールにとぼとぼと歩いて行き、知り合いだったマネージャーにアイスクリームをご馳走になったそうですが、
話をしているうちに、突然、
あ、『ビコーズ・オブ・ユー』なら唄える!英語の歌が唄えるかもしれない。
と、歌を歌ってお金がもらえるかもしれないと、ひらめいたそうで、
このダンスホールで歌わせてほしいとお願いしたところ、マネージャーはすぐにOKしてくれたそうで、ぶっつけ本番で歌うことに。
ぶっつけ本番で歌った「ビコーズ・オブ・ユー」が拍手喝采を浴びる
すると、観客から拍手喝采を浴び、翌日から毎日ステージで歌うことになったそうで、
雪村さんは、その時のことを、
それで大きいマイクを前に一生懸命歌ったら、ダンスしていた人たちがみんな踊りを止めて、ステージに寄ってきてくれて、拍手してくれちゃったの!
で、「明日からおいで」って言われたのよ。だから、私はメイドさんになり損なった日に歌手になっているの。
運命と言うか・・・とてもラッキーでした
と、語っています。
(この「ビコーズ・オブ・ユー」は、当時、雪村さんが唯一歌える英語の歌だったそうですが、家にはすでに蓄音機などの機械はなく、たまたま、友達の家で聴かせてもらったのを覚えていたのだそうです)
仲代達矢と「俳優座」の試験を受けていた
ちなみに、この出来事の少し後、雪村さんは、遠い親戚の仲代達矢さんと一緒に「俳優座」の試験を受けたそうですが、筆記試験では何も書くことができずにあえなく不合格。
試験官からは、「来年来なさい」と言われたそうですが、その翌年には歌手になっていたため、再度、挑戦することはなかったのだそうです。
(一方、仲代さんは合格し、そのまま「俳優座」に入ったそうです)
「雪村いづみが若い頃は「三人娘(美空ひばりと江利チエミ)」で人気!」に続く