高校3年生の時、「文学座」で初舞台を踏んで以来、舞台、映画、テレビドラマと長年活躍してきた、丹阿弥谷津子(たんあみ やつこ)さんですが、戦時中は、移動劇団で、全国の工場、学校、軍に慰問公演をしていたといいます。

「丹阿弥谷津子のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」からの続き

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「桜隊原爆殉難者追悼会」にゲスト出演

丹阿弥さんは、2008年8月6日、広島市で行われた「桜隊原爆殉難者追悼会」に特別ゲストとして参加しているのですが、この「桜隊」は、1942年に、薄田研二さん、徳川夢声さん、丸山定夫さん、藤原釜足さんを中心に結成された「苦楽座」を前身とする劇団で、1945年に「桜隊」として改名すると、移動劇団として、地方へ慰問巡演活動をしていたそうです。

実は、移動劇団は、戦争遂行を支援するという国の政策の一環で、芝居を続けるには移動演劇連盟に加盟するしかなく、「桜隊」も移動演劇連盟に加盟したそうで、1944年には、連盟に加盟している劇団は地方への疎開を強いられたことから、「桜隊」15名も広島に疎開。その疎開地である広島を拠点に、全国の工場、学校、軍へと慰問公演を続けていたそうです。

「桜隊」のメンバー9名全員が広島の原爆で被爆して死去していた

しかし、1945年8月6日、広島市に原爆が投下されたことで、「桜隊」のメンバーは被爆。この時、広島の宿舎兼事務所にいた、隊長の丸山さんをはじめ、園井恵子さん、島木つや子さん、高山象三さん、笠絅子さん、小室喜代さん、羽原京子さん、森下彰子さん、仲みどりさんの9名全員が他界されたのだそうです。

(爆心地から750mしか離れていない場所で被爆し、5人は即死、4人は放射能によって、8月末までに他界されたそうです)


「桜隊」

ちなみに、広島に疎開していた15名のうち、この9名以外の残りのメンバーは、様々な理由から広島を離れており、難を逃れたそうです。

「桜隊」の隊長・丸山定夫との思い出

さておき、丹阿弥さんは、1942年、「文学座」の研究生となり、同年、「富島松五郎伝」で初舞台を踏んでいるのですが、この舞台に特別参加(客演)していたのが、この「桜隊」の隊長だった丸山さんだったそうで、

丹阿弥さんは、その時の丸山さんについて、

初めて出た舞台で丸山さんのお芝居を見たものですから、自分が出てない幕は花道とか舞台の袖からそーっと見ていたんです。やっぱり最後の幕での奥様とも別れてなんともいえない顔してじーっとお座りになっている丸山さんのお姿が今でも胸に浮かぶくらい心を打たれました。

と、語っています。

また、丹阿弥さんによると、丸山さんは「富島松五郎伝」をとても気に入っていたそうで、自分たちの劇団(当時は「苦楽座」)でも公演していたそうです。

(「富島松五郎伝」は、1943年には、阪東妻三郎さん主演で「無法松の一生」として映画化されると、「苦楽座」の座員だった園井恵子さんがヒロインを務めているのですが、園井さんは原爆で死去したため、園井さんには最初で最後の映画出演となっています)

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広島は特別な場所

そんな丸山さんは、地方巡業するたびに、移動演劇のためのコースも作ってくれたそうで、丹阿弥さんたち「文学座」も移動演劇で各地を巡演し、原爆が落ちる前年の1944年には広島も訪れていたそうですが、

その際には、丹阿弥さんが「クワ」と言って慕っていた友人の桑原さんが、「文学座」のみんなを招いてご馳走してくれたそうです。

ただ、原爆投下で桑原さんの自宅は崩壊。桑原さんと一番下の妹さんは東京にいて助かったそうですが、ほかの家族は全員亡くなったそうで、そのような出来事からも、丹阿弥さんにとって、広島という場所には、特別な思いがあるとのことでした。

(桑原さんは、原爆投下後、家族の安否確認のため、広島に戻ったそうですが、その際、放射能を浴びてしまったそうで、その後、その影響で他界されたそうです)

「丹阿弥谷津子の夫は金子信雄!子供は?」に続く

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