高校生の時、共通の友人を介し、菅原進さんと知り合うと、学校をさぼってはナンパに明け暮れたという、せんだみつおさんは、その後、大学を中退し、菅原さんと菅原さんの兄・孝さんのフォークユニット「ビリー・バンバン」にコンガ担当として参加したといいます。
「せんだみつおは一貫校なのに法政大学を不合格になっていた!」からの続き
駒沢大学を2年で中退
高大一貫校だったにもかかわらず、内部試験の結果で下位4割は進学出来なくなって法政大学に進学できなくなってしまい、受験勉強をし、なんとか駒沢大学に入学したというせんださんですが、
なんと、つまらないという理由で、駒沢大学は2年生の時に中退したそうで、それをお母さんに伝えると、またお母さんは泣き出したそうですが、お父さんは、この時も、「おまえが決めたことだ」と言って許してくれたそうです。
(中退を決心したその日にハンコを買い、退学届を書いて提出したのだそうです)
「ビリー・バンバン」にコンガ担当で加入
それからというもの、せんださんは、靴磨きのアルバイトをするほか、菅原進さんが通う、浜口庫之助さんの歌謡スクールについて行くなどすると、
1967年、21歳の時には、菅原進さんとお兄さんの孝さんが結成したフォークユニット「ビリー・バンバン」に、コンガ(打楽器)担当として加入したそうです。
(「ビリー・バンバン」は、もともと、菅原進さんが1966年に青山学院大学の友人4人と結成したのですが、翌年の1967年にはメンバーチェンジが行われ、進さん、お兄さんの孝さん、せんださんの3人組のバンドとなったのだそうです)
「ビリー・バンバン」をクビになりコックになろうと服部栄養学園に通う
ただ、1968年、22歳の時には、再び、やっぱり3人よりも兄弟2人デュオのほうがかっこいいと、レコード会社の意向でせんださんはクビになってしまったそうで、
その後、せんださんは、いつまでもフラフラしている訳にも行かず、コックになろうと一念発起。
調理師になるための勉強をしようと、服部栄養学園に入学手続きすると、1年通い、調理師になるための、中華、西洋、日本、製菓の4項目を取得し、無事、卒業したのだそうです。
(そのため、今でもビーフストロガノフが作れるそうです)
「ビリー・バンバン」のメジャーデビュー曲「白いブランコ」が大ヒット
そんなせんださんは、実は、「ビリー・バンバン」をクビになってからも、昼間、服部栄養学園に通いながら、夜は、「ムッシュ中野」名義で「ビリー・バンバン」の付き人兼楽器運び兼コンガ叩きをしていたそうですが、
1969年1月、服部栄養学園を卒業し、さて、これから何をやろうかと思っていたちょうどその頃、「ビリー・バンバン」が「白いブランコ」でメジャーデビューすると、いきなり、20万枚を売り上げる大ヒットを記録して、一躍脚光を浴び、各方面から引っ張りだことなったことから、
せんださんの仕事も自然と忙しくなり、「労音」(勤労者音楽協議会)、「音響」(日本音楽協議会)、「民音」(民主音楽協会)などの各種音楽団体の公演で日本各地を巡業したそうですが、その際には、1回(1晩)1万円もらえたそうで、自分の行く道は芸能界しかない、と思うようになったのだそうです。
「せんだみつおは昔「ワイドワイドサンデー」のレポーターに抜擢されていた!」に続く
「白いブランコ」