昼間、調理師学校に通う傍ら、夜は「ビリー・バンバン」の付き人等をしていたという、せんだみつおさんですが、1969年に、「ビリー・バンバン」が「白いブランコ」でメジャーデビューし、20万枚を売り上げる大ヒットとなると、せんださんの仕事も増え、当時憧れていたフランキー堺さんの巡業に加わることが出来たほか、ついにはラジオ番組「東芝ワイドワイドサンデー」のレポーターに起用されたといいます。
「せんだみつおは若い頃「ビリー・バンバン」でコンガをしていた!」からの続き
「フランキー堺とゴールデンボールズ」の巡業で楽器運びをしていた
1969年、「ビリー・バンバン」のメジャデビュー曲「白いブランコ」が大ヒットすると、「ビリー・バンバン」の付き人等をしていたせんださんも自然と仕事が増えたそうで、
「ビリー・バンバン」の菅原進さんが通っていた歌謡スクールの主宰者・浜口庫之助さんから紹介され、コメディアンの世志凡太(せし ぼんた)さんの運転手を務めるほか、
その世志さんが参加していた、フランキー堺さんのバンド「フランキー堺とゴールデンボールズ」の巡業に加わり、楽器運びをしたこともあったそうです。
(新幹線では楽器を客室に入れてはいけなかったため、廊下でドラムセットを抱いて寝たそうです)
憧れのフランキー堺のもとで働けたことが嬉しくて仕方なかった
ちなみに、当時、フランキー堺さんは、せんださんの憧れの存在だったそうで、フランキーさんの巡業に加わることになり、嬉しくて舞い上がったことは、今でも忘れられないそうで、
フランキーさんの巡業中、生まれて初めて飛行機に乗ったというせんださんが、フランキーさんにその旨伝え、「良かったね」と言ってもらったことも忘れられないそうです。
また、そんなフランキーさんには、一度、自宅に招かれ、奥さんの手料理をご馳走になったことがあったそうですが、
後年、フランキーさんが他界し、葬儀に参列した際、奥さんに、「せんだみつおさんはどうして?」と聞かれたそうで、
いや、私、実は名前ないころ目黒のご自宅に行ってごはんいただいたんですよ
と、言うと、奥さんはびっくりしていたそうです。
ラジオ番組「東芝ワイドワイドサンデー」のレポーターに起用される
さておき、せんださんは、「ビリー・バンバン」以外にも、当時はまだ無名だった、井上陽水さん(当時は「アンドレカンドレ」)や吉田拓郎さんなど、ほかのアーティストやバンドのコンサートの司会も務めるようになっていったそうですが、
ある時、「ビリー・バンバン」のコンサートで、「みんなと歌おう」と題し、お客さんを何人かステージに上げて、一緒に歌う予定も、「ステージに上がって~」と言っても誰も上がらなかったため、
せんださんがサクラとなって、「オレ 歌う~」とステージに走って行き、ステージから転げ落ちて笑いを取っていると、
それを見ていたニッポン放送のディレクター・上野修さんに、「きみ、おもしろいじゃない、今度仕事しよう」と言ってもらったそうで、坂本九さんがメインパーソナリティーを務めていたラジオ番組「東芝ワイドワイドサンデー」(日曜日昼間4時間のラジオ番組だったそうです)のレポーターに起用されたのだそうです。
「せんだみつおは若い頃「ワゴンでデート」の司会者に抜擢されていた!」に続く