「舞台芸術学院」で、3年間、演技の基礎を学んだという、品川徹(しながわ とおる)さんは、「舞台芸術学院」卒業後は、「劇団自由劇場」に入団するも、ほどなくして、解散したことから、その後は、劇団を転々とした後、劇作家の太田省吾さんらと「劇団転形劇場」を設立したといいます。

「品川徹の生い立ちは?中卒で家具職人として修業していた!」からの続き

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「劇団自由劇場」に入団&退団

内弁慶で人前に出るのが恥ずかしい性格を克服しようと、定時制高校で演劇部に入部すると、たちまち演技に夢中になり、高校卒業後は、上京して「舞台芸術学院」に入学したという品川さんは、

1962年に「舞台芸術学院」を卒業後すると、演出家の程島武夫さんに誘われて、「劇団自由劇場」に入団したそうです。

ただ、翌年の1963年9月には「劇団自由劇場」が解散したため、その後は、いくつかの劇団を転々としたそうです。

(「劇団自由劇場」は、程島武夫さんが1958年に旗揚げした劇団で、イギリスの劇作家アーノルド・ウェスカーやジョン・アーデンの戯曲などを上演していたそうです)

劇作家・太田省吾らと「劇団転形劇場」を設立

そんな中、品川さんは、1967年に、「演劇企画集団66」に参加すると、そこで、劇作家の太田省吾さんと知り合い、1968年には、太田さんらと「劇団転形劇場」の設立に参加したそうで、

(太田さんは、学習院大学で演劇をしていたそうですが、程島武夫さんの劇に感動して、学習院大学を中退すると、(自由劇場はもう解散していたため)程島さんの演出助手をするほか、舞台芸術学院の助教師を務めていたそうです)

太田さんが1970年に「劇団転形劇場」の主宰者に就任し、戯曲も書くようになると、2時間以上ある舞台で、セリフが全くなく、1m進むのに5分かけるなど、極度にゆっくりした動きで演じる「沈黙劇」を作るなど、独特の世界観のある演劇スタイルを確立したそうですが、

品川さんは、そんな太田さんの代表作である「沈黙劇」の3部作「水の駅」「地の駅」「風の駅」をはじめ、太田さん作・演出の全ての舞台に出演したのだそうです。

(中でも、「砂の駅」という作品は、(太田さん他界後の)2011年に、韓国を代表する女性演出家のキム・アラさんから上演したい旨の申し出があったことから、同じ「劇団転形劇場」の劇団員だった、大杉漣さん、鈴木理江子さんと共に韓国に行って演じたそうで、思い出深い作品だそうです)

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太田省吾は役者としての基礎を作ってくれた人だった

ちなみに、品川さんは、太田さんについて、

彼は、理論家でもあって、演劇論をたくさん執筆しました。こんなに演劇論を書いた演出家はいないと思いますよ。

ただ、太田さんの書く演劇論は「(難解で)わからない」という評判は、よく聞きました。僕らは何年も一緒にやっているからわかりますけどね。

太田さんとは、16年間、転形劇場で一緒にたくさんの舞台をやり、海外の多くの演劇祭にも参加しました。転形劇場を解散した後、京都の近畿大学や京都造形芸術大学で教鞭を執っていた頃も、年に1回くらい劇を作って、僕らも出演しました。

太田さんは、役者としての僕の基盤を作ってくれた人。彼がいなかったら、今こうして品川徹という役者は、存在していなかっただろうなぁ、たぶんね。

と、語っています。

「品川徹は67歳の時「白い巨塔」でようやくブレイクを果たしていた!」に続く

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