1941年に太平洋戦争が開戦すると、やがて、東京の街は戦争一色となり、1943年には、故郷・熊本に疎開したという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、約2年後には、玉音放送により終戦を知ったそうですが、その後、忘れられない出来事があったといいます。
「財津一郎の生い立ちは?先祖代々熊本・阿蘇の大地主だった!」からの続き
小学5年生の時に玉音放送で終戦を知る
財津さんは、熊本での疎開生活が2年ほど経った1945年8月15日、
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・
と、玉音放送(天皇の肉声の放送)をラジオで聞いたそうで
ラジオから流れる言葉は難しく、まだ、小学5年生だった財津さんには理解できなかったそうですが、
周囲の大人たちが、縁側に出て、ラジオから流れる天皇の言葉を聴きながら、地面に正座して泣いている様子を見て、戦争に負けたことを理解したそうです。
終戦後も父親がシベリアに抑留されたままで極貧生活を余儀なくされていた
ただ、満州のハイラル国境守備隊に配属されていたお父さんは、終戦後、ソ連のシベリアに抑留されて帰ってこれなかったそうで、
(当時、財津さん一家は、お父さんが、生きているのか死んでいるのかさえ、分からない状態だったそうで、後に、シベリアに抑留されていたことを知ったのだそうです)
財津さん一家は、お父さんを待つ間、食うや食わずのとても貧しい暮らしを余儀なくされたそうで、米や麦は手に入らなかったことから、ぬかや芋を食べ、それらも食い尽くしてしまうと、川でエビを採るなどして、なんとか食いつないだのだそうです。
進駐軍(アメリカ軍)のトラックや兵隊を見て圧倒されていた
そんな中、1945年8月の終戦から間もない頃のこと、今でも忘れられない出来事があったといいます。
それは、ある日のこと、国鉄(現在のJR)の上熊本駅に、アメリカの進駐軍が集結し、日本の警察官が10メートル間隔で並んで警備していたそうですが、
(進駐軍(アメリカ軍)は、沖縄のキャンプ地から黒石原飛行場(熊本県・合志市)に向かう際、立ち寄ったのだそうです)
20台ほどの大きな軍用トラックが、砂煙を上げながら近づいて来て、財津さんたちの近くで勢いよく半円を描いて止まると、カーキ色の軍服を着たとても大きなアメリカ兵たちが降りてきて、手際良く点呼をし、
再びトラックに乗り込むと、最後尾のトラックに乗っていたアメリカ兵が段ボール箱をぽーんと放り投げたのだそうです。
(財津さんは、大きくて立派なトラックを見るのも外国人を見るのも、この時が初めてだったそうですが、アメリカ兵は、日焼けをしたように顔が真っ赤だったことから、鬼みたいだと思いながら、その迫力に圧倒されたそうです)
当時の警官は戦争に負けても日本人のプライドを持っていた
すると、そのダンボール箱の中には、チューインガムやチョコレートなど、お菓子がたくさん入っていたそうで、お腹をすかせていた財津さんら子供たちは、一斉に、砂ぼこりにまみれた箱に群がろうとしたそうですが、
その時、
拾うんじゃなかぁ
と、大きな声が響き渡ったそうで、その迫力のある大声に圧倒され、一瞬みな動きが止まったのだそうです。
(声を上げたのは、中年の男性警官で、眼鏡の片方のレンズが割れて柄もなく、代わりに紐で耳にかけているという、あまりにも貧しい有様ながら、立ち姿は凛々しかったそうです)
ただ、しばらくすると、空腹に耐えられず、みな一斉に段ボール箱に群がったそうですが、今度は、その警察官は、何も言わずに、すっと後ろを向いて立ち去ったそうで、
財津さんは、その警官が、
戦争に負けても日本人のプライドを持て
と、言いたかったのだと、理解したのだそうです。
(今でも、その人の姿が脳裏に焼き付いて、忘れられないそうです)
「財津一郎は少年時代に病気の母親の為に農家を回って食べ物をもらっていた!」に続く