1959年には「榎本健一映画演劇研究所」を卒業するも、さらに東京で修行をしようと決めたという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、なかなか仕事がなく、毎日、職業安定所に通っていると、ひょんなことから、憧れの俳優だった仲代達矢さんを目にし、このままではいけないと、再び、演技の勉強をするべく、「石井均一座」の門を叩いたといいます。

「財津一郎は「榎本健一映画演劇研究所」卒業後は職安に通う日々だった!」からの続き

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「石井均一座」に入座を懇願

憧れの俳優・仲代達矢さんを前に、自身を振り返り、情けなさがこみ上げてきたという財津さんは、

俺は一体何をやっているんだ。このままじゃいけない

と、すぐに、その足で、近くの新宿松竹文化演芸場を拠点にしていた「石井均一座」に出向くと、

何とか一座に入れて下さい。猛烈に演技の勉強がしたいんです

と、必死の形相(ぎょうそう)で頼んだそうです。

「石井均一座」に入座するもまもなく解散

すると、「石井均一座」に入れてもらえたそうで、「石井均一座」が持ち味とする、人情劇に懸命に取り組んだそうですが・・・

わずか2年後の1961年には、「石井均一座」は解散してしまったのだそうです。

(「石井均一座」には、伊東四朗さんもいたそうで、伊東さんとは音楽を通じて仲良くなったそうです)

「劇団ムーラン」に入団するも・・・

こうして、再び、仕事を失い、途方に暮れていたという財津さんですが、しばらくすると、東京・新宿にあった「劇団ムーラン」で劇団員を募集していると聞いて入団。

そこには、財津さんのような若手の劇団員が大勢集まっており、台本をもらうと、化粧室に集まり、みんなで必死にセリフの読み合いをしたそうで、本物の演劇を観客に届けようと、お互い、切磋琢磨したのだそうです。

(「劇団ムーラン」の芝居は、一幕50分くらいだったそうですが、その中には、正義感、社会観、戦争観、笑いと、全てがあったそうで、財津さんは、ここでたくさんのことを学んだのだそうです)

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「劇団ムーラン」もまもなく解散

すると、当初は少なかった観客も、だんだん、会社員や大学生で賑わうようになったそうで、財津さんたちも、さらに、やる気に燃えたそうですが・・・

1962年には、オーナーの意向により、突然、ヌード劇場になることに決まり、「劇団ムーラン」は解散。

解散パーティーでは、「劇団ムーラン」の幹部で劇作家の小崎政房さんが、

戦後日本の軽演劇は、ヌードに追われた。今、再び、ヌードに追われることを潔しとせず解散する。皆さんは何も敗北感を背負う必要はない。いつの日か、いつの日か諸兄が世に出た時、「劇団ムーランの役者です」と胸を張って答えてくれたまえ

と、力を込めて言ったそうで、

(鼻をすすり、こぶしで涙をふくものもいたそうです)

財津さんは、著書「聞いてチョウダイ 根アカ人生」に、

本物の演劇を大衆に届けようとした団員たち。私はムーランの一員だったことを今も誇りに思っています。

と、綴っています。

(「劇団ムーラン」は、1931年に設立された「ムーラン・ルージュ新宿座」を前身としており、戦後まもなく、焼け跡が残る新宿で復活すると、森繁久彌さんや由利徹さんなど、数々のスターを輩出したそうですが、1951年には、経営難などで解散。その後、1961年9月に、「劇団ムーラン」として再復活を果たし、この時、財津さんが参加しているのですが、赤字経営が続いていたそうです)

「財津一郎は昔「吉本興業」に入っていた!」に続く


聞いてチョウダイ 根アカ人生

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