お兄さんの形見のアコーディオンが、ボタンが8個しかないおもちゃのようなもので、本格的な演奏が出来ず、かといって、まともなアコーディオンは高価過ぎて手が出ず、ギターとトランペットに挑戦したという、キダ・タローさんですが、いずれもうまくいかず辞めると、今度は、アコーディオンと同じ鍵盤楽器ということで、ピアノを始めたそうですが、肝心のピアノを確保するのに苦労したといいます。
「キダ・タローが若い頃はギターとトランペットを断念していた!」
ピアノに転向するも・・・
アコーディオンをあきらめ、ギターとトランペットに挑戦するも、いずれもうまくいかなかったというキダさんは、仕方なく、アコーディオンと同じ鍵盤楽器であるピアノに転向し、練習用のピアノを手に入れたそうですが、
この練習用のピアノというのが、板をくり抜いて黒鍵と白鍵を作ったもので、叩いても引っ込まない鍵盤が配置されてあるだけのもので、このピアノでは限度があり、すでに、アコーディオンを弾きこなしていたキダさんには、物足りなかったそうです。
(キダさんいわく、貧乏人用のピアノだったそうです)
高校や大学のピアノでこっそり練習していた
そこで、母校(関西学院大学高等部)の音楽室にあるピアノに目をつけ、こっそり、練習していたそうですが、ある日、先生にバレて、怒られてしまったそうで、
今度は、大学(関西学院大学)のピアノのある教室に忍び込んで、こっそりと練習をすることにしたそうですが、やはり、大学でもバレ、翌日から、部屋に鍵をかけられたそうです。
それでも、キダさんはあきらめられず、下敷きを使って鍵を開け、中に入って練習するほか、関西学院大学には、学部がたくさんあり、ピアノのある教室がほかにもいくつかあったため、ほかの部屋のピアノで練習したのだそうです。
神戸・花隈のダンスホールでピアノ弾きとして働くことに
ただ、大学の教室に忍び込んでの練習では長時間することができなかったそうで、
(とにかく、ピアノが上手になるため長時間練習したかったことから)
思い切って、神戸の花隈にあったダンスホールを訪ねて行き、「雇ってください」と言うと、「ほな、明日からおいでって」と言ってくれたそうで、キダさんは、このダンスホールでピアノ弾きとして働くことになったのだそうです。
(関西学院大学は、理工専門部に1年籍を置いた後、1950年に、再度、文学部社会学科に入学したそうですが、音楽活動に熱中するあまり、学校に通った記憶はほとんどないそうです)
裕福で恵まれたミュージシャンに対し反骨精神があった
ちなみに、この頃、ジャズは、米軍キャンプだけではなく、日本人の間でも大人気となっていたそうで、後に、日本のジャズ界の草分け的存在となる、ベースの渡邊晋さん、テナーサックスの松本英彦さん、ピアノの中村八大さん、ドラムのジョージ川口さん、トランペットの松本文夫さん、ベースの吉葉恒雄さんらがいたそうですが、
キダさんは、
今やったら安い楽器も手に入る。でも昔はなかった。ちゃんとした楽器があるかないかっていうのは大事ですよ。そもそもタンゴをやったんだって、アコーディオンとバイオリンがあったから。
タンゴしか出来ないじゃないですか。貧乏人で積み上げてきた男ですから、(恵まれたミュージシャンに対しては)なんじゃい、みたいなものはありましたね
と、語っています。
「キダ・タローは石原裕次郎(大学生)のバックバンドをしたことがあった!」に続く