19歳頃、キャバレー「パラマウント」のバンドマスターに依頼され、初めて作曲をしたという、キダ・タローさんは、30歳頃からは、テレビのコマーシャルソングや番組のテーマ曲の作曲を手掛けるようになったそうですが、その数は3000曲以上に及ぶといいます。
30歳くらいまでキャバレーでピアノ弾き&作曲をしていた
19歳頃、キャバレー「パラマウント」のバンドマスターに依頼され、初めて作曲を手掛けたというキダさんは、その後、20代前半頃から、「義則忠夫とキャスバオーケストラ」というバンドに所属して、10年ほど、キャバレーなどで音楽活動(ピアノ弾き)をしていたそうですが、
23~24歳頃からは、並行して、本格的に作曲活動もするようになったそうです。
(「キダ・タロー」名義で、初めて依頼されて作曲したのは、ネクタイの「エールック」のコマーシャルソングだそうで、歌はデューク・エイセスさんが歌ったそうです)
テレビのコマーシャルソングを手掛けるようになる
そんな中、キダさんが所属していた「義則忠夫とキャスバオーケストラ」は、しばしば、朝日放送の公開放送に起用さていたそうですが、30歳頃のこと、キダさんは、朝日放送の音楽担当プロデューサーの目に留まり、テレビのコマーシャルソングの作曲を手掛けるようになったそうで、
ちょうど、テレビが新しいメディアとして勢いを増していた頃だったこともあり、テレビ番組やCMに音楽が必要とされ、キダさんに仕事が殺到したのだそうです。
作曲依頼が殺到し大阪では独占状態だった
実は、このコマーシャルソングの仕事は、1959年11月、朝日放送で「ミュージカル・スポット・コンクール」という、日本全国から企業を募集して安くCMを作りますという企画の番組が始まったそうですが、歌い手に、デューク・エイセスさん、ボニー・ジャックスさんなどの一流を起用したため、応募が殺到したそうで、
朝日放送は、東京と大阪の作詞家と作曲家に曲を発注したそうですが、東京には、作詞・作曲家が大勢いるも、大阪では、注文に素早く応えることができる作曲家はキダさんだけだったことから、作曲はキダさんが独占状態だったそうで、
キダさんは、
それまで(テレビ番組で)著作権関係なしに(曲)使っておったのが、うるさくなった。その頃、ABC(朝日放送)からなんでもええから、ようけ曲作ってくれって言われたことがある。
なんでもええっていうのは、悪くてもええわけです。それやったら、ネタが一つあったら百曲できる。ただ、それは〝せきまえ〟になりますわな。
せきまえっていうのは、いい加減みたいな意味。こっちは急ぐけど、いい加減ではないつもりなんですけれど、どうしてもそうなってしまう
と、語っています。
(テレビの現場は、先達がおらず、新しいことの連続だったため、常に活気にあふれつつも、乱暴で混沌としていたそうです)
三木鶏郎をお手本にしていた
ところで、キダさんは、コマーシャルソングを作る際、三木鶏郎さんを参考にしていたといいます。
(※三木鶏郎さんは、作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家で、コマーシャルソングのほか、童謡、舞台音楽、映画音楽など様々なジャンルの音楽を手掛けており、日本初のコマーシャルソングである、小西六写真工業(現在のコニカ・ミノルタ)の「僕はアマチュアカメラマン」を手がけています)
というのも、当時、三木さんのコマーシャルソングは、毎日、どこかで、耳に入って来たそうで、どれをとっても良くないと思ったものは一つもなく、
コマーシャルっていうのはこういう風に作るんや
という形のようなものが、自分の中でできたそうで、
キダさんいわく、消化したと言えば聞こえは言いが、いわゆる、モノマネをしていたのだそうです。
(三木さんは、キダさんよりも16歳年上だったそうですが、同じ業界だったにもかかわらず、東京と大阪で距離が離れていたことから、一度も会ったことがないそうです)
最多で1日40曲を作曲?
そんなキダさんは、1日に作曲した数について、
最高で一日七曲。一睡もせずに二四時間で七曲というのが限界。詞があって、作曲して編曲して写譜。曲は一分で出来ることもあるし、一時間掛かることもある。作曲の時間は未定ですやん。でも、編曲、楽譜を書く時間というのが絶対いりますやん
名曲1曲で似たのは20曲は作れますからね。屁のような1曲も含めたら1日40曲くらい作ってましたかなあ(笑)
と、語っています。
作曲した数は3000曲?
また、当時、作曲した数について、
取材なんかで尋ねられたら、3千曲から5千曲いうてますけど、1万曲かも分からん。けど、あんまりアホなこと言うのもなんやし、3千曲くらいですかな~
と、語っています。