1977年には、シングル「北国の春」が大ヒットするほか、不動産事業の方でも、絶頂期には総資産額が2000~3000億円にも達し、「歌う不動産王」と呼ばれるまでになった、千昌夫(せん まさお)さんですが、やがて、事業の規模が大きくなりすぎたことから、1988年には、一切の芸能活動を停止します。
「千昌夫は若い頃から様々な人との交流を大切にしていた!」からの続き
当初は「歌手・千昌夫」が事業の成功の秘訣であると認識していたが・・・
千さんは、不動産事業が軌道に乗り出した、1986年頃のインタビューでは、
銀行の人だって、評論家の偉い先生だって、歌手・千昌夫が事業してるから会ってくれるんです。一般人だったら絶対に会ってくれないですよ。それにボクにとって、事業と歌手を両方やっていることが逆に息抜きになるんですよ
と、語っており、
当初は、実業家としてやっていけるのは(事業の成功は)、歌手としての千昌夫があってこそ、ということを強く認識していたそうですが、
(事業の規模が小さいうちは、返済額がそれほど大きくなかったため、歌うことで事業のストレスが解消できる余裕があったようです)
事業が拡大するにつれ、借金が膨らんでくると、その返済にフル回転せざるを得なくなり、「歌手・千昌夫」でいるどころではなくなっていったそうです。
「自転車操業」的な経営で借金が膨らむ
というのも、千さんの事業のやり方は、借金で不動産を買って、その値上がり益を担保に新たな土地を購入し、融資の返済は、賃貸マンションやその家賃収入で行っていたため、いつも回転していなければならない、いわば「自転車操業」的な経営だったそうで、やがては、借金が膨らみ、その返済にフル回転しなければならない状態に陥っていったのだそうです。
(つまり、資金的なストックがないため、常にお金のあるほうに動いていかないと、経営がストップしてしまう)
そんな中、千さんの会社には、千さんが信頼する人物がいなかったことから、事業と芸能活動の両立が難しくなり、ついに、1988年には、一切の芸能活動を休止しているのですが、
千さんは、マスコミに、活動休止宣言をした際、
(芸能活動は)体ごと持っていかれる仕事ですからね。そうなるとせっかく事業の情報を教えてもらっても、対応できる状態ではなくなってきたんですよ
と、語っています。
バブル崩壊の兆しが見え始め金策に奔走
ただ、1991年頃からバブル崩壊の兆しが見え始めると、千さんの事業にも陰りが見え始め、ただひたすら、借金を減らしていくほかなくなったそうで、
同年には、歌手活動を再開し、1日のギャラが700万円とも800万円ともいわれる地方公演を精力的にこなし、手持ちの物件もどんどん売却していきつつ、
ノンバンクに出向いては、利息が払えないため、利息分を融資してくれるように頭を下げるなど、金策に奔走する日々が続いたそうで、
(銀行から資金を調達(つまり借金)して不動産を買い、その値上がり益を担保にして新たに融資を受ける、いわゆる「自転車操業」だったため、不動産価格や株価が下落したことで、これまで手に入れた資産は二束三文の値打ちしかなくなってしまい、銀行は融資してくれなくなったそうです)
千さんは、この頃、取材に押しかけるマスコミたちに、
売れるもんだったら、何でも売ります。自宅だろうが、車だろうが、売るのは恥ずかしいとは思いませんよ。ボクは 4畳半一間からスタートした人間だし、乗っている車が外車からトラックに変わったとしても、どうってことないですよ
と、語っています。
「千昌夫は経営危機のため「おやじ先生」で歌手活動を再開していた!」に続く