「チューリップ」として、数々のヒット曲を世に送り出すと、「チューリップ」解散後も、ソロ、作曲家として、長年、活躍してきた、財津和夫(ざいつ かずお)さんですが、実は、2005年、57歳の時には、「更年期障害」の症状に苦しみ、2017年、69歳の時には、「大腸ガン」で手術を受けていたといいます。
「財津和夫の妻は元OL!馴れ初めは?娘は声優!息子は音楽関係者?」からの続き
更年期障害だった
1997年には、「チューリップ」を再結成し、全国ツアーを重ねていた財津さんですが、生まれながらの真面目な気質に加え、仕事の重圧、多忙ですれ違いがちな家族への気苦労など、様々なストレスが蓄積されていたそうで、
「チューリップ」の4度目の再結成ツアーの真っ最中だった2005年10月には、仕事に向かおうとしても足が前に出ず、以降、冷や汗が出る、やる気が出ない、夜眠れない、唇や瞼(まぶた)が痙攣(けいれん)する、闇夜をさまようような不安感に襲われるなど、様々な症状に悩まされるようになったそうで、
財津さんは、
夢中になると、体調のことなど後先考えずに、がむしゃらに突っ走ってしまうところがあるんです
生まれながらの性分で、ずっと蓄積されてきたストレスが、ついにコップの縁からあふれ出てしまったようだった
と、語っています。
これまでの生き方を見直していた
それでも、その後、医療機関を受診して、カウンセリングを受け、医師のアドバイスに従って、散歩などで体を動かすことを心がけるほか、これまでの生き方を見直し、
これからは、無理も、やせ我慢もしない。わがままに、やりたいことをやっていく
ことを心がけるようにしたところ、
次第に症状は収まり、還暦を過ぎる頃には、元気を取り戻したそうです。
大腸ガンだった
しかし、その後、また、ツアーや作曲など、多くの仕事をこなしていると、2017年、69歳の時には、今度は「大腸ガン」を患ったそうで、
財津さんは、
いろいろな無理が積み重なっていたんでしょうね。当時は仕事上のプレッシャーがとても大きくて、本当につらい日々を過ごしていました。その無理がいろいろと重なり、あんな大変なガンになってしまったのかな。
人の脆さを知れたとか、肉体あっての精神だとか、そういうことを学ばされたって感じです
と、語っています。
(ガンが判明する半年前には「鼠径ヘルニア」の手術を受けていたそうで、ここ数年、体の不調が続いていたとのこと)
医師の反対を押し切って帰京して手術を受けていた
ちなみに、財津さんは、2017年5月末、仕事先の福岡で意識がなくなるほどの腹痛に襲われ、救急病院に行って検査を受けると、「腸閉塞」と診断され、おそらく、「大腸ガン(下行結腸ガン)」によるものなので、すぐに、手術をしたほうがいいと言われたそうですが、
(ステージ3.5で、ガン細胞が浸潤し、あともう少しで腸壁が破れるところだったそうで、財津さんは、それを聞き、死をも覚悟したといいます。(ステージ4が致命的だと言われています))
財津さんは、東京に戻って手術したかったそうで、
(この時、財津さんは、ちょうど、「チューリップ」45周年記念ツアーの最中だったそうですが、6月以降に予定されていたコンサートは中止となったそうです)
医師から、
飛行機なんかに乗ったら、どうなるかわかりません。その場で死ぬかもしれませんよ!
と、強く反対される中、東京に戻って、手術し、無事に成功したそうですが、
その後、再発防止のため、抗ガン剤治療を開始すると、副作用で、手足が痺れるほか、味覚や嗅覚がなくなり、食欲がまったく出なくなり、すっかり痩せてしまったそうです。
(体の為にと無理に食べると、吐きそうになったそうです)
ソロツアーに復帰するも座ったまま歌うのが精一杯だった
それでも、
みなさん抗ガン剤治療をやりながら働いておられますよ
と言う主治医の言葉に、そうなのかと奮起し、
「大腸ガン」発覚から約10ヶ月後の2018年4月には、治療の甲斐もあって順調に回復し、ソロツアーに復帰すると、
力は出ず、足元もおぼつかず、ギターを持つ手の感覚もなく、座ったまま、なんとか歌ったそうですが、
財津さんは、その時のことを、
お客さんは温かく迎えてくれて・・・。闘病中の励ましにも力をもらいました。人間はこうやって支えられているのだとしみじみ感じた。だからこそ、絶対に健康になってステージに立ちたいと思ったんです
と、語っており、
その後も、順調に回復を遂げると、同年9月には、中止になっていた「チューリップ」の全国ツアーを再開し、休憩をはさみながらも3時間のステージに立ち続けて、以降、合計27公演をやり遂げています。
さて、いかがでしたでしょうか。
財津和夫さんの、
- 年齢は?出身は?学歴は?
- 本名の由来は?
- 「和製ポール・マッカートニー」と呼ばれるも元々はジョン・レノンに憧れていた
- 父方の祖父は熊本藩士
- 父方の祖父・民平はある教師のはからいで小学校に通うことができた
- 父方の祖父・民平は警察官から熊本県の役人になっていた
- 父方の祖父・民平は朝鮮半島光州・南平に移住していた
- 父方の祖父・民平は朝鮮半島光州・南平で有数の農場経営者となっていた
- 財津和夫の父・國平の代から財津姓を名乗るようになっていた
- 父方の祖父・民平の恩師の財津家が途絶えさせないためだった
- 父・國平が山村サイと結婚
- 長兄と次兄が次々と夭逝(幼くして他界)していた
- 朝鮮から日本へ引き揚げる
- 父・國平は養豚場⇒食堂を経営していた
- 少年時代は家が何度も立ち退きに遭っていた
- 少年時代に米軍のラジオ放送でアメリカンポップスを聴きアメリカに憧れるようになっていた
- 母親が音楽好きだった
- もともと「ビートルズ」には興味がなく耳障りな音と感じていた
- 「ビートルズ」の映画「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」を観て衝撃を受ける
- 高校時代はバンドを組み「ビートルズ」の曲を演奏していた
- 「ビートルズ」の日本公演を観に行っていた
- 「ビートルズ」の日本公演では涙を流す男の子を見て音楽の力に驚く
- 高校卒業後はパチンコに夢中だった
- 高校の同級生の女の子とばったり出会ったことがきっかけでパチンコを辞める
- 高校の同級生の女の子から叱咤され大学を受験していた
- 社会性のある曲を歌うのではなく純粋に音楽を楽しみたいと思っていた
- 「ザ・フォーシンガーズ」では「ライト・ミュージック・コンテスト」で6位だった
- 「チューリップ」では「ライト・ミュージック・コンテスト」で準グランプリに
- 地元・福岡で人気を博す
- メジャーデビューを目指して上京
- 「私の小さな人生」でデビューするもメンバー2人が脱退し解散
- 「私の小さな人生」の歌詞
- 「私の小さな人生」は「小さな」という形容詞にこだわって作っていた
- 「チューリップ」のメンバーの宗田慎二と末広信幸に「財津の敷いた線路の上は歩けない」と言われていた
- 「チューリップ」の元メンバー宗田慎二と末広信幸に再会
- 宗田慎二と末広信幸が「チューリップ」を脱退した本当の理由とは?
- 宗田慎二&末広信幸と和解
- 新生「チューリップ」を結成
- 「魔法の黄色い靴」で再デビューするもさっぱりだった
- 新生「チューリップ」は観客にまったくウケなかった
- 再デビューが決まった際には故郷を捨てる覚悟で上京していた
- 上京時の航空券代やアパート代は事務所から前借りしていた
- 2DKの古びた木造アパートでメンバー5人すし詰めになって共同生活をしていた
- 神田のヤマハのスタジオでは音楽のレベルの高さに驚いていた
- 完璧を目指し張り詰めた空気の中で練習していた
- 2枚目のシングル「一人の部屋」もさっぱりだった
- 2枚目のシングル「一人の部屋」が売れなかった理由は?
- 3枚目のシングル「心の旅」が大ヒット
- 「心の旅」は彼女について来てもらえない切ない心境を歌にしたものだった
- 「心の旅」はシンプルでわかりやすいメロディを心がけて作曲していた
- 「心の旅」は姫野達也が急遽リードヴォーカルに抜擢されていた
- 「心の旅」を自身のリードヴォーカルで歌えなかった悔しさが残っていた
- 財津和夫が「心の旅」でコーラス担当となったのは高い評価が故だった
- 「夏色のおもいで」「銀の指環」でアイドル的な人気を確立
- 「夏色のおもいで」では作詞も外され挫折感に打ちのめされていた
- 「青春の影」では財津和夫がリードヴォーカル
- 「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」のヒットでスターの座を不動のものに
- 「チューリップ」から上田雅利と吉田彰が脱退
- 財津、安部、姫野、宮城、伊藤の5人で「チューリップ」(第二期)が再始動
- 吉田彰は「チューリップ」脱退後は音楽業界から完全に引退していた
- 印税の分配ルールが変更されていた
- 吉田彰は「チューリップ」メンバー間の相互査定にショックを受けていた
- 吉田彰は「チューリップ」に貢献していないとみなされていた
- 財津のソロ活動のため「チューリップ」の仕事が減ることとなっていた
- 吉田彰は「チューリップ」の財津以外のメンバーに新たなバンドを組むことを提案していた
- 吉田彰の当時の収入は?
- 吉田彰への伝達事項が財津和夫から直接伝えられたことは一度もなかった
- 吉田彰は財津和夫の意向をデスクマネージャーを通じて伝達されていた
- 吉田彰は第3者を通じて伝達してくる財津和夫に強い不満を抱いていた
- 財津和夫はしばしば「運命共同体」と言っていた
- 吉田彰は財津和夫の予想通りの言葉に辞める決断をしたことは正解だったと確信していた
- 吉田彰は財津和夫の考えを確信して「チューリップ」を脱退していた
- 吉田彰はすぐには「チューリップ」を辞めさせてもらえなかった
- 財津和夫は吉田彰を無理にカードゲームに参加させていた?
- 吉田彰は新メンバー宮城伸一郎の話題作りに利用され激怒していた
- 財津和夫は吉田彰が「辞めた理由がわからない」と語っていた
- 吉田彰が財津和夫に貸した大学の入学金はコツコツ貯めたお金だった
- 吉田彰が財津和夫に貸した大学の入学金はローンではなく「心の旅」の印税で返済されていた
- 第二期「チューリップ」として再始動するも・・・
- 姫野達也、安部俊幸、伊藤薫が脱退
- 第三期「チューリップ」として再始動するもファン離れが加速
- ドラムスの松本淳も「チューリップ」を脱退
- 「チューリップ」が解散
- 「チューリップ」再結成のきっかけは「ビートルズ」だった
- ディスコグラフィ(「チューリップ」シングル)
- ディスコグラフィ(「チューリップ」アルバム)
- ディスコグラフィ(ソロ・シングル)
- ディスコグラフィ(ソロ・オリジナルアルバム)
- 松田聖子に提供した「チェリーブラッサム」「夏の扉」「白いパラソル」や沢田知可子に提供した「会いたい」が大ヒット
- 妻との馴れ初めは?
- 女性の好みにうるさく結婚願望は薄かった
- 財津和夫の意向で結婚式や披露宴は執り行わなかった
- 娘は声優!息子は音楽関係者?
- 更年期障害だった
- これまでの生き方を見直していた
- 大腸ガンだった
- 医師の反対を押し切って帰京して手術を受けていた
- ソロツアーに復帰するも座ったまま歌うのが精一杯だった
について、まとめてみました。
アメリカの豊かな文化とイギリスのとがった音楽の影響を受けた僕たちは、歌詞よりもサウンドを前面に打ち出してきた。そのうち、洋楽と日本語の良さをものにした、歌謡曲でも演歌でもない、本当の日本のポップスがきっと生まれる。そんな曲が出てきたら、僕らがその礎を築いた、と思えるんじゃないかな
と語り、近年は、日本語の美しさを大切にしようと、一般の人向けに、作詞の仕方を教えているという財津さん。
類まれなる音楽の才能に恵まれながらも、バンドリーダーとしての強烈な自負と個性から、他のメンバーたちとの間に軋轢(あつれき)が生じ、過去には、次々とメンバーに脱退され解散せざるを得なくなった財津さんですが、そうでもしなければ、「チューリップ」はここまで生き残れなかったのかもしれません。