早稲田実業高校へ進学し、野球部に入部すると、入部10日でレギュラーに起用され、1年生ながら、3年生のバッティングのお手本にされるなど、ずば抜けて野球が上手だった、王貞治(おう さだはる)さんは、その1ヶ月後には、春季都大会決勝の日大三高戦に登板すると、並木輝男さん(後に阪神タイガースに入団)らを擁する強力打線を完封したといいます。

「王貞治は早実野球部では入部10日でレギュラーとなっていた!」からの続き

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入部わずか1ヶ月で日大三高の強力打線を完封していた

王さんは、早稲田実業高校野球部に入部して1ヶ月後の1956年5月3日には、早くも、春季都大会決勝の日大三高戦に登板したそうですが、

(日大三高は、この年の春の選抜で甲子園に出場したばかりの強豪だったそうです)

中学時代から自信があったという大きなカーブと重い球質の直球だけで抑えたそうで、(後に阪神タイガースに入団する)並木輝男さんらが居並ぶ日大三高の強力打線を見事完封し、4対0で勝利したそうです。

(王さんは、直球は、140キロ、150キロ出るわけではなく、どちらかというとカーブに特徴のあるピッチャーだったそうで、(今のように「カットボール」や「シンカー」といった球がない時代だったため)カーブと、直球を内外角に投げ分けるだけの、シンプルな組み立てだったそうですが、球質が重かったせいか、高校時代に打たれたホームランはわずか1本だけだったそうです)

有頂天になって喜ぶ姿を兄に咎められていた

そんな王さんは、入学してまだ1ヶ月だったこともあり、有頂天になって、ベンチ前でグラブを放り投げて喜んだそうですが、

試合を観戦していたお兄さんから、

おまえは相手の気持ちを考えたことがあるのか

と、咎(とが)められたそうで、

この一件以来、王さんは、嬉しい時も悔しい時も感情を出さないようにし、後に、巨人に入ってからも、喜怒哀楽はあまり出さないようにしたそうです。

(このお兄さんの言葉は、もともとはお父さんの「日本に来て、日本に生かされている」という考えに由来するもので、お父さんは、偉ぶったりおごったりして人の反感を買うことを、最もいけないことだと戒めていたそうです)

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夏の甲子園東京都予選では1年生ながら5番レギュラーに抜擢されていた

さておき、それから2ヶ月後の7月、夏の甲子園東京都予選では、1年生ながら春から(左翼手兼控え投手で)レギュラーだった王さんは、5番を任されたそうで、

(3年生の醍醐猛夫さん(後に毎日オリオンズ(現・ロッテ))と徳武定之さん(後に国鉄スワローズ(現・ヤクルト))が3番と4番)

準決勝では、当時最大のライバルの一校だった明治高校を2対1と破ると、続く決勝戦の成蹊高等学校戦では、打線が爆発して13対1で勝利し、早稲田実業高校は、見事、夏の甲子園出場を決めたのでした。

「王貞治は早実では久保田高行総監督のもと先進的な練習をしていた!」に続く

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