巨人(読売ジャイアンツ)に入団すると、キャンプ2週目には、水原茂監督らから、「明日からもう投げなくていい」と、投手失格を言い渡されたという、王貞治(おう さだはる)さんですが、その一方で、バッティングは高く評価されていたそうです。

「王貞治は巨人入団後キャンプ2週目で投手失格を言い渡されていた!」からの続き

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長嶋茂雄や川上哲治からバッティングを高く評価されていた

巨人入団後、早くもキャンプ2週目で、ピッチャー失格の烙印を押されたという王さんですが、一方、バッターとしては、先輩に負けない飛距離が出ており、

コーチの川上哲治さんに、

(ピッチングは)何というか、球筋がやさしいんですね。”おおっ”っていうのがない。しかしバッティングはすごかった

と、高く評価されるほか、

(川上さんによると、王さんのバッティングは、構えからスイングまで全く顔が動かず、新人ながら基本が完成していたそうです)

既にスター選手だった長嶋茂雄さんにも、「ウイークポイントが少ない」と高く評価されたそうです。

(王さんは、高校時代、中央大学の先生にバッティングを分析してもらったことがあったそうですが、王さんのスイングは、フォロースルーが大きく、バットと球が比較的長い時間ひっついているそうで、そのため、なかなか、落ちない飛球が打てるのでは、と言われたそうです)

二軍監督の千葉茂が一軍監督の水原茂に王貞治を野手として起用するよう進言していた

そんな王さんを見ていた二軍監督の千葉茂さんは、練習後に王さんと入浴した際、

王の体格には驚いた、非常にいい筋肉をしておる。ただし、いかり肩で大成した投手はいないだけに、投手としては厳しいだろう

と感じ、

水原監督に、

ピッチャーとしてはあきまへん。でもバッターなら川上の半分は打ちます

と、野手での起用を進言したそうで、

王さんは、投手ではなく、野手(一塁手)として起用されたのだそうです。

一塁手だった川上哲治が引退したため一塁が空いていた

そんな王さんですが、実は、野手のポジション争いの点で幸運なことがあったといいます。

それは、もともと、不動の一塁手だった川上哲治さんが、前年で引退して、一塁のポジションが空いていたことと、当初は、それに伴い、与那嶺要(ウォーリー与那嶺)さんが一塁に入る予定だったところ、「王には外野は務まらない」ということで、与那嶺さんが外野、王さんが一塁となったのだそうです。

ただ、与那嶺さんは、当時、「週刊ベースボール」で、

ワンさんのバッティングうまいね。ボクが長い間かかってつかんだ左右打ちのコツを知っている。だから打率いいネ。一塁のポスト取られる。早くワンさんの一塁を決めてもらった方がいい。中途半端で(自分が)外野の練習できないネ

と、コメントしており、

(与那嶺さんはハワイ移住の日系2世で外国人扱い)

やはり、王さんの打撃が凄かったことが伺えます。

(とはいえ、与那嶺さんも、俊足と巧打で、首位打者3回(2年連続を含む)、最多出塁数3回、最多安打3回(当時は連盟表彰なし)、ベストナイン7回と、長年、1番バッターとして活躍し、第2期巨人黄金時代を支えました)

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大型一塁手として同期入団するはずだった木次文夫が1年遅れで入団する幸運に恵まれていた

また、さらに、もう一つ、王さんが一塁手として起用されたことには、大きな幸運があったといいます。

それは、王さんが入団した翌年の1960年には、木次文夫さんが川上哲治さんの後を継ぐ大型一塁手として期待され、巨人に入団しているのですが、

(木次さんは、長野・松商学園高等学校から早稲田大学に進み、東京六大学リーグで長嶋茂雄さんの通算8本に次ぐ、通算7ホーマーを放ったスラッガーだったことから、巨人の期待は大きく、契約金は長嶋さんや王さんより上だったそうです)

実は、高卒の王さんと大卒の木次さんは4学年違いで、本来なら、ちょうど同期入団になるはずだったところ、木次さんは、大学受験の際、なんと、受験票を忘れてしまい、そのせいで、一年浪人し、巨人入団が一年遅れてしまっていたそうで、

もし、木次さんと王さんが同期入団だったならば、王さんは投手として入団したこともあり、一塁手として出る幕がなく、最初から一塁手だった木次さんが一塁手のレギュラーとなり、活躍していた可能性があったというのです。

(そんな中、プロ2年目だった王さんは、木次さんの入団で奮起し、この年、チームトップの17本塁打を打って、同年のオールスターゲームに一塁手部門でファン投票で選出されています)

「王貞治はデビューから26打席無安打もプロ初安打は決勝本塁打だった!」に続く

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