開幕から26打席無安打が続き、1959年4月26日には、国鉄スワローズの村田元一投手から決勝ホームランとなるプロ初安打を放つも、その後も成績は振るわなかったという、王貞治(おう さだはる)さんですが、プロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)では、6番一塁に起用されると、阪神のエース・小山正明さんから、同点2ランホームランを放ちます。
「王貞治はデビューから26打席無安打もプロ初安打は決勝本塁打だった!」からの続き
プロ野球初の天覧試合に6番一塁で先発出場していた
プロ27打席目での初安打が決勝ホームランとなり、雲の上を飛ぶような気持ちでベースを一周したという王さんですが、その後も成績は振るわず、
そんな中、1959年6月25日、1割6分9厘、3ホーマーで迎えた、後楽園球場で行われたプロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)に6番一塁で先発出場することになったそうです。
(この時も、水原茂監督は、成績が振るわない王さんを我慢して起用してくれたのでした)
天皇・皇后両陛下のご臨席は恐れ多く投球の合間にチラチラと見やるのが精一杯だった
ちなみに、天皇・皇后両陛下のご臨席は、今では想像もつかないほど、恐れ多いことだったそうで、王さんは、バックネットの真後ろにあったロイヤルボックスの中で腰を降ろされているであろう両陛下の方に、顔を向けることもはばかられ、一塁を守りながら、投球の合間にチラチラと見やるのが精一杯だったそうです。
(この日は、普段はにぎやかな応援席の鐘(かね)や太鼓(たいこ)、笛の音も鳴りを潜め、スタンドの売り子さんも、いつもは「パンやジュース」と張り上げている声を小さくするなど、スタンドは静まり返っていたそうです)
プロ野球初の天覧試合はシーソーゲームになっていた
そんな厳(おごそ)かな空気の中、試合が始まると、まずは、3回表に、阪神がエース・小山正明さんの自らのタイムリーヒットで1点を先制、5回裏には、巨人が、長嶋茂雄さん、坂崎一彦さんの連続本塁打で逆転。
しかし、6回表には、またまた、阪神が藤本勝巳さんの2ランホームランなどで再逆転と、シーソーゲームになったそうです。
阪神のエース・小山正明から4号同点2ランホームランを放っていた
そんな中、2対4と阪神の2点リードで迎えた7回裏1死一塁、王さんに打席が回ってくると、王さんは、阪神のエース・小山さんから、見事、ライトスタンドに4号同点2ランホームランを放ったのでした。
(これは、長嶋さんとの「ONコンビ・アベック本塁打」と言われ、以降、通算106回を記録したそうです(「O」は王さん、「N」は長嶋さんの意味))
ただ、王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、この日のことを、
学生や社会人野球ではご臨席があったが、両陛下のプロ野球ご観覧は初めて。「職業野球」の名残で、アマチュアより低く見られがちだったプロ野球が国民的娯楽として認知されるきっかけとなった。
この年7本だけだった本塁打の1本が、ここで出た。ということは今風に言えば私も「何かを持っていた」のだが、技術的なよりどころは全くなかった。
本当に「持って」いたのはやはり長嶋さんだ。村山実さんからサヨナラホーマーを放って決着をつけた。プロに入ってまだ右も左もわからなかったが、長嶋さんは人と違うのだということだけはよく分かった。
長嶋さんは前日から興奮して寝付けなかったというけれど、それはバリバリの主力だったからで、私は意識するような立場ですらなかった
と、綴っています。
1959年6月25日、天覧試合で同点2ランホームランを放つ王さん。これが「ONアベック本塁打」の第1号。