上半身と下半身のバラバラの動きを連動させるため、荒川博さんが考案した「一本足打法」を練習するも、まるで、雲をつかむような話で、当初はイメージトレーニングとしてのみ使っていたという、王貞治(おう さだはる)さんですが、その後、4年目のシーズンに入っても相変わらず鳴かず飛ばずだった中、荒川さんから、急遽、実践でも「一本足打法」で打つことを命じられたといいます。
「王貞治の一本足打法は当初はイメージトレーニング用だった!」からの続き
4年目のシーズンも開幕してから3ヶ月間成績はパッとしなかった
王さんは、1962年、4年目のシーズンでは、オープン戦が好調だったため、開幕戦(阪神戦)では、4番に起用されたそうですが(公式戦で初)、ほとんど打つことができず、その後も、たまに一発は出るものの、開幕してから3ヶ月経った頃の成績は、打率2割6分前後で、打順も3番、1番、5番と固定されず、相変わらずパッとしなかったそうです。(この時は、これまで通り二本足)
(川上哲治監督は、長嶋茂雄さんが出塁し、王さんの長打で得点を入れることを期待していたことから、この王さんの成績不振に頭を悩ませていたそうです)
そして、同年6月30日の大洋ホエールズ(現・DeNA)戦では、3番打者に起用されるも、もともと苦手だった鈴木隆投手に2打数2三振1四球と軽くひねられて、途中交代させられたそうで、
普段は楽天的な王さんも、さすがに参ってしまい、川崎球場から帰る途中、荒川さんの車の中で、
どうしても打てる気がしません
と、弱音を吐いたそうです。
荒川博から「一本足打法」で打つように命じられる
すると、翌日の1962年7月1日の大洋ホエールズ戦のダブルヘッダー第1試合では、王さんは、1番に起用されるのですが、
試合前、荒川さんから、
今日から一本足でいくぞ
と、イメージトレーニングでしかなかった「一本足打法」で打てと言われたのだそうです。
荒川博は別所毅彦ヘッドコーチから「王が打てないから勝てない」と責められていた
実は、その試合前の監督コーチ会議で、荒川さんは、別所毅彦ヘッドコーチから、
王が打てないから勝てないんだ
と、八つ当たり気味に言われたそうで、
この言葉に、頭に血が上った荒川さんは、思わず、
私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる
と、返したそうですが、
別所ヘッドコーチは、揚げ足を取るように、
そのホームランだけでもいいから打たせろ
と、怒鳴ったそうで、
荒川さんは、血相を変えて部屋を飛び出して、王さんをつかまえ、
今日から一本足で打て。三振を怖がるな
と、凄まじい形相で命じたのだそうです。
(荒川さんは、後年、「三冠王を取らせる」はとっさに出たホラだったと語っています)
荒川博が大見得を切ったことで「一本足打法」で打つことになった
ちなみに、王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、「一本足打法」を命じられた経緯について、
荒川さんは川上監督に「王を長嶋と並ぶ二本柱に育ててくれたら優勝できる」と言われてコーチになった。打率2割8分、25本塁打を打てる打者に、というのが川上さんの注文だったそうだが、独り立ちすらおぼつかない。
川上さんにとって打線強化は最大の課題だったはずだ。就任1年目の昭和36年、前年覇者の大洋から覇権を奪い返したものの、チーム打率は2割2分6厘5毛でリーグ最低だった。
得点は435点でリーグ一だったから、よほどうまく切り盛りしたわけだが、これではとても安心して指揮を執ることはできない。
しかし、相変わらず私は鳴かず飛ばず、だ。そのころチームも6連敗するなど、雰囲気は最悪だ。コーチ会議で投手担当の別所毅彦さんに「王が打てないから勝てない」と責められた荒川さんは「ホームランならいつでも打たせてみせる」と大見得を切った。
いかにも江戸っ子らしく、カラ元気を出したものだろうが、私たちが追い込まれていることに変わりはなかった。
と、綴っています。
「王貞治の一本足打法はたった1日で止めていたかもしれなかった!」に続く