最初の妻・恭子さんを、2001年12月、57歳という若さで、胃ガンのため亡くした、王貞治(おう さだはる)さんですが、その後、一般女性と10年の交際を経て再婚しています。ただ、当初は、次女の王理恵さんに再婚を反対されていたといいます。
「王貞治の前妻の死因は?子供は3人娘で次女は王理恵!」からの続き
再婚相手は料亭の女将
王さんは、2018年6月、78歳の時、18歳年下の一般女性A子さん(当時60歳)と再婚しています。
二人は、1998年頃、王さんがダイエーホークス監督時代、A子さんが営む福岡・中洲の有名料亭を訪れたことがきっかけで知り合ったそうで、以来、王さんが、その料亭を贔屓(ひいき)にするようになると、A子さんは、なかなかチームの結果が出ずに落ち込む王さんを励ましたそうです。
ただ、当時は、王さんには、妻・恭子さんがおり、王さんとA子さんは仲の良い友人という関係だったそうです。
王さんと現在の妻A子さん。
現在の妻との馴れ初め
そんな中、2001年、王さんが、35年連れ添った妻・恭子さんを胃ガンで亡くし、2006年には、自身も胃ガンで胃の全摘出手術を受けると、A子さんが献身的に闘病をサポートしたそうで、
このことをきっかけに、二人の関係は、良き友人から恋人へと変わり、2009年頃から、福岡にある王さんのマンションで同棲を始めたそうで、
(王さんは、2009年には腸閉塞と胆のう摘出手術を行っているのですが、この時も、A子さんが献身的に看病したそうです)
王さんは、2015年から、都内の一戸建ての本宅とは別に、六本木にマンションを借り、A子さんを呼んで一緒に暮らし始めたそうです。
(A子さんは、女優の名取裕子さん似の和服が似合う美人だそうです)
交際時から関係をオープンにしていた
ちなみに、王さんは、A子さんとの関係をオープンにしており、
某球界関係者は、
王さんは昨年(2017年)末、名球会のハワイ旅行にもA子さんを同伴し、同行した名球会メンバーに“ウチのかみさんだからよろしく”と彼女のことを紹介していました。
A子さんは球場にもよく来ますが、会長室には入らずにスタンドで観戦する謙虚な方です。球団関係者からは、すでに“奥さま”と呼ばれていました
と、証言しています。
(A子さんは、結婚前から王さんのことを、外では「主人」、家では「あなた」と呼んでいたそうです)
籍を入れることを考え始めるも次女・理恵の反対に遭っていた
そんな王さんは、2014年に、A子さんの実家である料亭が閉店したこともあり、ちゃんとした形でA子さんを支えなければという気持ちが強くなったことから、A子さんと籍を入れることを考え始めたそうですが、籍を入れることについて、3人の娘のうち、次女の理恵さんだけが、すぐには納得できずにいたそうです。
というのも、理恵さんは、A子さんのことを、「父の財産目当てかもしれない」との不安を抱えており、お父さんのパートナーとしては認めていたものの、わざわざ籍を入れる必要はないのでは、と思っていたのだそうです。
また、2002年には、母・恭子さんの遺骨が王家の墓から何者かに盗まれるという事件が発生しているのですが、理恵さんは、お母さんの遺骨が戻って来たとしても、お父さんとA子さんが結婚してしまったら、お母さんが戻る場所がなくなるのでは、と心配していたのだそうです。
(東京都目黒区碑文谷の円融寺にある王家の墓から、恭子さんの遺骨が何者かに盗まれた事件。この事件に絡み、球団側に遺骨と引き換えに現金を要求する電話がかかってきたそうですが、球団側はこれを拒否。電話の人物が遺骨盗難に関係しているのか、事件に便乗しただけなのかは不明で、2022年時点、犯人逮捕には至っていません)
ただ、やがて、(結婚と離婚を繰り返していた理恵さんの3度目の結婚生活がうまくいっていたこともあり)頑なだった理恵さんの心も少しずつほぐれていき、お父さん夫婦と自分がお互い幸せな時間を過ごす中、「それぞれが新しい道を歩み始めよう」との思いが生まれるようになったそうで、王さんは、理恵さんからも祝福されて、交際10年で、A子さんと再婚したのだそうです。
さて、いかがでしたでしょうか。
王貞治さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 国籍は中華民国籍
- 中華民国籍のままでいる理由とは?
- 父親は中国から日本に出稼ぎに来て中華料理店を経営していた
- 母親は19歳で両親が他界して家の主となり東京に奉公に出ていた
- 両親は真面目に働き事業を拡大していた
- 父親は戦中戦後はヤミ物資を手に入れるため千葉方面まで仕入れに行っていた
- 中国人である父親は迫害を受けていた時期もあった
- 仮死状態で生まれ、幼少期は病弱だった
- 次男として誕生するも妹が夭逝し末っ子して育つ
- 双子(二卵性双生児)の姉も夭逝していた
- 夭折した双子の姉が人生を支えてくれていると言われ育っていた
- 4歳の時に東京大空襲に遭う
- 南東の方向(わずかに北側)に逃げて無事だった
- 家は焼け落ちて失くなっていた
- 戦中戦後の貧しい時期にもかかわらず父親が中華料理店をしていたお陰で食べ物に困らなかった
- 少年時代は父親の作るチャーハンが大好物だった
- 少年時代は父親が麺を打つ様子を見るのが好きだった
- 父親の中華料理店「五十番」の味には日本への感謝の気持ちが込められていた
- 小学生の頃から野球に夢中だった
- 野球のボールを追いかけて転び上の前歯を欠けさせていた
- 小学4年生の時に本格的に野球を始める
- 中学生の時には高校生主体の野球チーム「厩四ケープハーツ」に入部
- 中学生ながらカーブを投げる投手に成長していた
- 中学生の時には小畑勝義とバッテリーを組み区大会で優勝していた
- 見知らぬおじさんに「左打ち」を勧められていた
- 「おじさん」はまだ24歳の荒川博だった
- 荒川博のアドバイスで左打ちに転向していた
- 父親の意向で将来は電気・機械の技師になろうと思っていた
- 父親は他界するまで故郷・中国への思いを強く持っていた
- 父親の夢は息子2人に技術を身につけさせ故郷・中国に帰ることだった
- 技師になるため進学校・都立墨田川高校を受験するも不合格だった
- 一番早くスカウトしてくれた早稲田実業高校に進学を決定
- 早稲田実業高校に決めた別の2つの理由
- 父親の反対に遭うも兄が味方になってくれ早稲田実業高校に進学できていた
- 早稲田実業高校野球部に入部するも先輩には難癖をつけて殴られていた
- 入部して10日目でレギュラーとなり1年生ながら3年生のバッティングのお手本にされていた
- 就寝は毎晩午後11時を回るも苦にはならなかった
- 入部わずか1ヶ月で日大三高の強力打線を完封していた
- 有頂天になって喜ぶ姿を兄に咎められていた
- 夏の甲子園東京都予選では1年生ながら5番レギュラーに抜擢されていた
- 「競走」が唯一苦手な練習だった
- 早稲田実業高校では練習中も水が準備されいつ飲んでもよかった
- 早稲田実業高校では久保田高行総監督により先進的な「ピック・オフプレー」が取り入れられていた
- 夏の甲子園2回戦では先発に起用されるも惨敗していた
- 3年生の間では1年生の王貞治が先発して惨敗したことがしこりとなっていた
- 早実の主将・醍醐猛夫は久保田・宮井両監督から岐阜商戦で王貞治が先発することを聞き不満に思っていた
- 1年生の秋にエースとなるとノーワインドアップ投法に変更
- 秋の東京都大会決勝ではノーワインドアップ投法で勝利
- 春の選抜大会は2回戦は1安打投球、準々決勝は完封で勝利していた
- 父親が指を痛めているのに気づき手当しに来てくれていた
- 高校2年生で迎えた春の選抜大会では準決勝まで3試合連続完封していた
- 春の選抜大会決勝・高知商業高校戦では8回表まで5対0とリードし圧倒的に有利だったが・・・
- 早稲田実業高校が創部以来初の優勝
- 一躍全国的に注目される存在に
- 2年生で迎えた夏の甲子園でノーヒット・ノーランを達成
- 夏の甲子園準々決勝では2対1の逆転負けを喫していた
- 高校3年生の春の選抜大会では史上4人目となる2試合連続本塁打を放っていた
- ピッチャーとしてはピークを過ぎていた
- プロのスカウトからバッターとして注目されるもプロになるつもりはなかった
- 高校3年生の夏の選抜大会決勝でありえない負け方をしていた
- 阪神の名スカウト・佐川直行から熱心に口説かれていた
- 巨人が再び王貞治獲得に名乗りを上げる
- 阪神と巨人のスカウトは親族を巻き込む場外戦を繰り広げていた
- 巨人入団が決定
- 巨人に入団した理由は少年の頃から川上哲治のファンだったから
- 巨人のキャンプ地・宮崎に意気揚々と寝台急行「高千穂」で向かっていた
- 入団後初のキャンプでは「スター見習い」扱いで長嶋茂雄との二人部屋だった
- キャンプ2週目に投手失格の烙印を押されていた
- 投手を諦めることには未練があるもホッとしている部分もあった
- 長嶋茂雄や川上哲治からバッティングを高く評価されていた
- 二軍監督の千葉茂が一軍監督の水原茂に王貞治を野手として起用するよう進言していた
- 一塁手だった川上哲治が引退したため一塁が空いていた
- 大型一塁手として同期入団するはずだった木次文夫が1年遅れで入団する幸運に恵まれていた
- 開幕戦の国鉄スワローズ戦ではエース・金田正一の前に3打席で2三振1四球だった
- 開幕から26打席無安打だった
- プロ初安打は決勝2ランホームランだった
- 我慢して使ってくれた水原茂監督に感謝していた
- プロ野球初の天覧試合に6番一塁で先発出場していた
- 天皇・皇后両陛下のご臨席は恐れ多く投球の合間にチラチラと見やるのが精一杯だった
- プロ野球初の天覧試合はシーソーゲームになっていた
- 阪神のエース・小山正明から4号同点2ランホームランを放っていた
- プロ入り1年目の成績は打率1割6分1厘、7本塁打と振るわなかった
- 「ボールを大事にした」との理由で1万円昇給し、以降、現役を引退するまで一度も契約更新でもめることはしなかった
- プロ入り2年目の成績は打率2割7分、本塁打17本、71打点とまずまずも・・・
- プロ入り3年目の成績は打率2割5分3厘、13本塁打、53打点と逆戻りしていた
- 荒川博は打撃コーチに就任してすぐ王貞治の打撃をダメ出ししていた
- 荒川博は王貞治がちゃんと練習すればすごい成績が残せると見込んでいた
- 荒川博についていこうと決意していた
- 荒川博の巨人打撃コーチ就任は広岡達朗が川上監督に進言&推薦したのがきっかけだった
- 荒川博は肉体の鍛錬が重要だと考えていた
- 合気道の「氣」の考え方を取り入れた素振(スイング)練習をしていた
- 特訓してもらうため荒川博の自宅に通っていた
- 荒川博は自宅を訪ねるとたいてい麻雀中だった
- 「一本足打法」は荒川博のアイディアだった
- 「一本足打法」は合気道の理論の裏付けがあった
- 「一本足打法」は当初はイメージトレーニングとして活用していた
- 4年目のシーズンも開幕してから3ヶ月間成績はパッとしなかった
- 荒川博から「一本足打法」で打つように命じられる
- 荒川博は別所毅彦ヘッドコーチから「王が打てないから勝てない」と責められていた
- 荒川博が大見得を切ったことで「一本足打法」で打つことになった
- 「一本足打法」がいきなり大当たりしていた「一本足打法」で大活躍し自身が大きく変わるのを感じていた
- 「一本足打法」はたった1日で止めていたかもしれなかった
- 「一本足打法」は当初は話題にならなかった
- 「真剣でわら束を切る」「天井から吊り下げた糸の先に付けたひらひらする短冊を日本刀で切る」という特殊な練習をしていた
- 「真剣でわら束を切る」「天井から吊り下げた糸の先に付けたひらひらする短冊を日本刀で切る」イメージをバッティングに応用していた
- 「一本足打法」でホームランを量産し本塁打王と打点王の二冠を獲得
- 荒川博コーチは言葉の使い方が素晴らしかった
- 荒川博は練習を始める前と終わる時で言葉にメリハリをつけていた
- 荒川博の指導者としての素晴らしさを絶賛していた
- 一塁守備時けん制球に不安を感じるようになった
- 速球派でないピッチャーに凡打し長嶋茂雄監督に「引退」をほのめかしていた
- 現役続行を示唆するも現役引退
- 本当の引退理由は?
- ヤクルト戦で19年連続となる30本塁打を記録した際に引退の意思は決まっていた?
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- ホームラン王15回、首位打者5回、打点王13回(三冠王2回)ほかタイトル多数
- 通算868本塁打、シーズン打率3割30本塁打100打点12回ほかNPB記録多数
- 野球殿堂、MVP9回、ベストナイン18年連続18回ほか表彰も多数
- 背番号
- 新監督・藤田元司から選手兼助監督を要請され快諾していたが・・・
- 突然の現役引退と助監督就任が発表される
- 現役引退が認められる代わりに助監督に就任させられていた?
- 現役引退後はチームから離れるつもりだった
- 助監督の3年間はあまり勉強にはならなかった
- 3年間の助監督生活の中で1度だけ意思決定をしたことがあった
- 「ON」(王貞治と長嶋茂雄)時代の野球が理想だった
- 何よりも守備が大切だと考えていた
- 監督1年目はオープン戦は好調も・・・
- 監督1年目は優勝の広島と8.5ゲーム差の3位
- 監督2年目は優勝の阪神と12ゲーム差の3位
- 自身の55本塁打記録にあと1本と迫ったランディ・バースに4四球して非難される
- ジレンマを抱えていた
- ドラフト1位指名はもともと清原和博の予定だった
- ドラフト1位指名を直前で桑田真澄に変更した理由とは?
- 桑田真澄を一本釣りしたことで密約を疑われ大バッシングを受ける
- 桑田真澄はPL学園の井元監督に密約は否定するも選ばれたことを喜んでいた
- 桑田真澄が改めて密約を否定
- 監督就任3年目も優勝出来なかった
- 監督就任4年目、巨人はかつてない危機を迎えていた
- リリーフに鹿取義隆・角三男・ルイス・サンチェを回す采配を「ワン(王)パターン」「酷使」と批判を浴びるも・・・
- 鹿取義隆・角三男・ルイス・サンチェが大活躍
- 監督就任4年目で初のリーグ優勝
- 桑田真澄、吉村禎章など若手選手が活躍する骨太のチームに成長していたが・・・
- 吉村禎章が栄村忠広と激突し選手生命に関わる大ケガ
- 1988年は吉村禎章、クロマティ、山倉和博と離脱者多数で優勝を逃していた
- 巨人の監督を解任される
- 最善を尽くした自負はあるものの涙が止まらなかった
- 巨人の監督退任後は何をしたいか分からなかった
- メジャー本塁打王のハンク・アーロンと「世界少年野球大会」を立ち上げる
- 根本陸夫に福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)の監督を打診されていた
- 根本陸夫から福岡ダイエーホークスの監督を打診されていた
- 福岡ダイエーホークスの監督を引き受ける
- 福岡ダイエーホークスからの監督オファーは巨人への思いを断ち切るには絶好のタイミングだった
- 1年目の1995年は大型補強も5位に終わっていた
- ホークスの選手たちは負け慣れして優勝するという意思が欠如していた
- 練習しようとする選手を遊びに行く選手が引き止めていた
- ケヴィン・ミッチェルは無断帰国を繰り返し解雇されていた
- バスに生卵を投げつけられていた(生卵事件)
- 屈辱に耐えながら選手たちを鼓舞していた
- 小久保裕紀、松中信彦、秋山幸二、工藤公康、武田一浩らがホークスの甘え体質を変えていった
- 巨人時代の仲間・黒江透修が選手との緩衝材になってくれた
- プロ入りを拒否していた城島健司を口説き落としていた
- 城島健司は少年時代から王貞治に憧れていた
- 城島健司が入団3年目から一軍に定着
- 尾花高夫に自ら電話で投手コーチのオファーを出していた
- 尾花高夫は気骨のある投手コーチだった
- ロドニー・ペドラザのクローザー起用は尾花高夫の推薦によるものだった
- 永井智浩、星野順治、若田部健一ら先発も見違える投手陣となっていた
- 根本陸夫の「ラーメン屋のせがれ」の一言でコーチや選手との溝が埋まっていた
- 二軍内野守備コーチ・森脇浩司は根本陸夫の「ラーメン屋のせがれ」発言に衝撃を受けていた
- マジック1で迎えた日本ハム戦では逆転満塁ホームランを打たれるも・・・
- 1999年ついにダイエーホークス監督でリーグ優勝
- 1999年には監督として初の日本一も達成
- 小久保裕紀を低迷中も4番で使い続けていた
- 勝つことや一番になることの喜びを知っている小久保裕紀を信じていた
- 小久保裕紀も王貞治の信念を理解していた
- 2000年の日本シリーズはON対決だった
- 長嶋巨人との第1戦は松井秀喜のホームランで先制されるも・・・
- 代打のメルビン・ニエベスのソロホームランで逆転勝ち
- 第2戦も長嶋巨人に先制されるも・・・
- 長嶋巨人に連勝
- 第3戦は高橋由伸の2ランホームランで先制されると・・・
- 城島健司のホームランと井口資仁のタイムリーで同点も松井秀喜の2ランホームランで敗戦
- 第3戦から第6戦まで4連敗して日本一を逃す
- 4連敗は変速日程の影響も大きかった
- 2001年と2002年は親会社ダイエーの経営不振と主力メンバーの離脱で大打撃を受けていた
- 2003年には2度目の日本一になるも・・・
- 2004年、2005年は、4.5ゲーム差をつけてシーズン勝率1位もプレーオフ(PO)で負け優勝を逃していた
- 当初はWBC日本代表チーム監督の要請を固辞していた
- 世界を舞台に戦っている孫正義の一言でWBC日本代表チーム監督を引き受けていた
- 日本代表選手の招集は無理強いしなかった
- ミーティングで選手たちのモヤモヤした気持ちを一掃していた
- イチローのリーダーシップを心強く感じていた
- 1次リーグでは1位2位を決める最終戦で韓国に2対3の逆転負け
- 2次リーグ初戦アメリカ戦ではイチローの先頭打者ホームランで先制するも・・・
- 2次リーグ初戦アメリカ戦では判定を覆されサヨナラ負け
- 判定を覆す審判の体たらくにがっかりしていた
- 現役時代のハンク・アーロン選手との本塁打競争では自身のポール際の打球を「『明らかにフェア』とは言えない。だからファウルだ」と言われていた
- 2次リーグでも韓国に敗れる
- 日本が準決勝に進出できる可能性はほとんどなかった
- メキシコがアメリカに僅差で勝利し奇跡的に日本の準決勝進出が決定
- ミーティングでは選手たちに「もう怖いものはない。思い切って戦おう」と言っていた
- 準決勝の韓国戦は代打・福留孝介の2ランホームランを皮切りに6対0で完封勝ち
- 決勝のキューバ戦は5回まで6対1でリードも8回には6対5と追い上げられていた
- イチローのライト前ヒットを皮切りに4点を追加してキューバに勝利し世界一に
- 松坂大輔選手の談話
- イチロー選手の談話
- 川崎宗則選手の談話
- 打率、本塁打、盗塁でナンバーワンの成績
- 胃ガンの全摘出手術を受けていた
- 手術後は無事に回復
- 執刀医・北島政樹医師のコメント
- 腸閉塞の治療と胆のう摘出手術も受けていた
- 2007年には2008年限りでの監督退任を示唆していた
- ソフトバンクの監督を退任しソフトバンク球団取締役最高顧問⇒球団取締役会長に就任
- ソフトバンク監督退任は胃ガンによる体力気力の衰えが原因
- 監督時代の成績(読売ジャイアンツ、ダイエー(ソフトバンク)ホークス、WBC)
- 最初の妻・恭子との馴れ初めは?
- 最初の妻・恭子とは交際していた訳ではなかった
- 出会って7年目で結婚
- 結婚後は亭主関白だった
- 前妻・恭子は王貞治を陰でサポートしていた
- 前妻・恭子が胃ガンのため他界
- 子供は3人共娘で次女は王理恵
- 再婚相手は料亭の女将
- 現在の妻との馴れ初め
- 交際時から関係をオープンにしていた
- 籍を入れることを考え始めるも次女・理恵の反対に遭っていた
について、まとめてみました。
2022年11月には、新型コロナウイルスで陽性反応が出たため、大事をとって入院していることが報じられた王さんですが、ゆっくり静養して、また元気な姿を見せてもらいたいものです。
そして、世界一となる通算ホームラン数を記録するほか、飛び抜けた成績を残した王さんにしか出来ないリーダーシップで、是非、プロ野球のコミッショナーとなってほしいものです。
「王貞治の国籍は中華民国籍!日本国籍or中国籍にしない理由とは?」