阪神では9年間で159勝をあげるなど多大な貢献をするも、1976年には、まさかのトレードを通告された、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、なぜ、トレードされることになったのでしょうか。今回は、いくつか考えられている理由をご紹介します。
「江夏豊は阪神から南海へのトレードを報道で知らされていた!」からの続き
吉田義男監督と仲が悪かった
まずは、1975年、金田正泰監督に代わり、監督に就任した吉田義男さんと仲が悪かったという話。
実は、江夏さんと吉田さんは、吉田さんが阪神の現役時代から犬猿の仲で、親しかった辻佳紀コーチが間に入ることで、ようやくコミュニケーションが取れる状態だったといいます。
吉田義男監督は阪神球団から江夏放出を進言されるも断っていた
そんな中、阪神球団や本社上層部は、1974年、吉田さんが監督に就任する際、
(南海の)野村さんなら江夏を使いこなせる
と、江夏さんを南海にトレードに出すことを打診するも、
吉田さんは、
少々の問題児でも、うまく使っていけば潜在能力を発揮してくれる
と、その声を抑え、江夏さんに期待を寄せていたそうですが・・・
吉田義男監督がリリーフ転向を打診するも聞く耳を持たなかった
吉田さんが、長いイニングで球威が落ちるようになった江夏さんを見て、リリーフ(抑え)への転向をそれとなく打診したことがあったそうですが、江夏さんは、まったく聞く耳を持たなかったそうで、吉田さんは江夏さんをうまく使いこなすことができなかったようです。
(当時は、先発の投手が最後まで投げきることが当たり前の時代で、リリーフ(抑え)は先発よりもレベルが落ちる投手と決まっており、江夏さんのプライドが許さなかったそうです)
首脳陣や選手たちから嫌われていた
また、6年連続で奪三振王に輝くなど、阪神でエースとして活躍する一方で、江夏さんはワンマンな性格だったと言われており、首脳陣や選手との間に不協和音が生じていたそうで、
遠征先の宿舎では、ほとんどの選手が江夏さんとの同室を嫌い、移動の新幹線でも隣の席同士になるのを嫌がったそうで、江夏さんはチームから浮いた存在で、周囲から煙たがられていたといいます。
(江夏さんは、一時期、(吉田義男監督就任前の)金田正泰監督と懇意にしていた時期があったものの、基本的にはどの派閥にも属せず、一匹狼的な立ち位置だったことを認めています)
力の衰え(血行障害)があった
しかし、江夏さん本人は、一番の理由は力の衰え(血行障害)で、戦力として必要かどうかという話になった時、球団が「いらない」と判断した、と考えているそうです。
(衰えたといっても、トレードの前年の成績は12勝12敗6セーブ、防御率3・07ですが)
とはいえ、江夏さんは、著書「燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)」で、
(トレードについて)自分も心の準備ができていないわけではなかったが、それにしても散々待たせておいて、年俸の提示がないばかりか、トレードとは。
自分なりにタイガースを愛し、タイガースのためにやってきたつもりだっただけに、ショックだった。
自分のなかでは阪神への愛憎が渦巻いていた。監督人事などを巡る人間関係にも疲れ、タイガースを出たいと思ったことも、正直あった。
半面、タイガースが俺を出すはずがないだろう、という自負もあった。自分の青春時代は阪神とともにあった。自分はあくまで縦じまのユニホームの28番であって、それを脱ぐときは野球を辞めるときなんだと思っていた。
と、悔しさをにじませています。