大型補強するも、監督就任1年目の1995年、5位(54勝72敗4分)に終わった、王貞治(おう さだはる)さんは、翌1996年には、黒星続きで怒りを爆発させたファンから、ナインの乗った帰りのバスを取り囲まれ、「王、辞めろ」のコールと共に、生卵を投げつけられるという屈辱的な経験をしたといいます。

「王貞治のダイエー監督1年目は大型補強も5位に終わっていた!」からの続き

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バスに生卵を投げつけられていた(生卵事件)

監督就任1年目の1995年、大型補強も虚しく、5位(54勝72敗4分)に終わった王ダイエーは、2年目の翌1996年も、5月9日の時点で、9勝22敗と早くも優勝戦線から脱落し、最下位に低迷していたのですが、

この日、大阪・日生球場での試合で2対3と近鉄に敗れると、ついに、怒りを爆発させたファンに、球場から出てきたナインの乗ったバスを十重二十重に取り囲まれ、

(この日は、スタンドに、王さんや瀬戸山隆三球団代表を痛烈に批判する横断幕が掲げられており、試合中から不穏な空気に満ちていたそうです)

王、辞めろ

の、コールと共に、生卵が投げつけられたのだそうです。(「生卵事件」)


怒り狂ったファンに取り囲まれたバス。

屈辱に耐えながら選手たちを鼓舞していた

これに対し、選手たちは、「なんでこんな思いをしなくてはいけないのか」というような顔をしていたそうで、

王さんも、球団フロントからV逸の責任を問われて巨人の監督を解任された時とは違い、師匠の荒川博さんや東京の仲間が心配し、「早く帰ってこい」と言ってくれたそうですが、途中で投げ出すことはできず、

選手たちに、

俺は辞めない

あれがファンの素直な気持ちなんだ。ああいう声が出ないようにするには勝つしかないんだ

と、話しつつ、耐え忍んだのだそうです。

(結局、この年は54勝74敗4分で最下位に終わっています)

小久保裕紀、松中信彦、秋山幸二、工藤公康、武田一浩らがホークスの甘え体質を変えていった

それでも、王さんと前後して入団していた、小久保裕紀選手、井口忠仁(資仁)選手、松中信彦選手らが主力を占めるようになり、監督就任3年目の1997年は、63勝71敗1分で4位、4年目の1998年には、67勝67敗1分でオリックスと並んで同率3位になったそうで、

この頃辺りから、王さんは、「これなら行けるかもしれない」と手応を感じ始め、

コーチや選手たちに、

弱ければ練習するしかない

プロ野球は体で表現する稼業だ。君たちは体で表現できているか?

と、言うほか、

球団からは、選手たちが萎縮するからと、止められていたという「巨人」という言葉をあえて出し、

巨人を超えなくちゃだめだ

と、言うと、

小久保選手らはこれを前向きに捉えてくれたそうで、春の高知キャンプでは、小久保選手と松中選手が、お互い「先には帰らないぞ」と張り合うかのように、暗くなるまで練習場に残って練習をするようになったのだそうです。

(小久保選手や松中選手は、アマチュア時代からトップ選手として五輪などの国際大会に出場し、勝つこと、一番になることの喜びを知っている、いわゆる「勝ち組」だったことから、「勝ち組」ならではの克己心を持っていたのだそうです。また、秋山幸二選手、工藤公康投手、武田一浩投手も、ホークスの甘えた体質を変えてくれたそうです)

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巨人時代の仲間・黒江透修が選手との緩衝材になってくれた

また、王さんは、前年1997年のオフには、巨人時代の仲間だった黒江透修さんを助監督兼バッティングコーチとして招いているのですが、

黒江さんはチームバッティングを教える一方、ユーモアある言動でチームを和ませ、王さんと選手の緩衝材になってくれたそうで、監督という立場上、選手に甘いところを見せられない王さんは、とても助かったのだそうです。

「王貞治はダイエー監督時代自ら城島健司を口説いていた!」に続く


王さんや球団を批判する横断幕。

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