高校時代の恩師である松永監督が法政大でも監督だったことから、1年生にもかかわらず、すぐにユニフォームを着させてもらうほか、エリートしか入れない合宿所(寮)にも入れてもらったという、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、当初は周囲に「監督のコネ」と白い目で見られるも、すぐに周囲を黙らせる活躍を見せます。

「田淵幸一は法政大では1年生ながら特別待遇を受けていた!」からの続き

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東京六大学野球第1号ホームランは慶應戦の同点2ラン

1年生もかかわらず、いきなり、ユニフォームを着させてもらい、エリートしか入れない合宿所(寮)にも入れてもらった田淵さんは、1965年春、東京六大学野球リーグ戦で、2カード目の早稲田2回戦に、6回からキャッチャーとして初出場すると(これが神宮デビュー)、続く東大戦では、正捕手に抜擢され、8番でスタメン出場したそうで、周囲からは、「監督のコネだろ」と白い目で見られたそうですが、

同年5月15日、慶應1回戦で、2点を追う8回、2死一塁で、森川勝年投手の内角直球をレフト芝生席へ同点2ランホームラン(第1号)を放ち、9回押し出し四球で法政大がサヨナラ勝ちすると、

大事な試合で貴重な一発を打ったことから、周囲の見る目も変わったのだそうです。

(この後、法政大は勢いに乗り、2回戦も快勝して優勝したそうです)


松永監督(左)と田淵さん(右)。

先輩にマッサージを命じられても二度と頼まれないようにわざと下手にやっていた

とはいえ、1年生であることには変わりなく、寮では、風呂焚きに便所掃除などをさせられたほか、

(風呂は熱くてもぬるくてもゴミが浮いていても許してもらえなかったそうです)

同じ部屋(学年一人ずつの4人部屋)の先輩にはマッサージを命じられたそうです。

(ただ、田淵さんは、二度と頼まれないように、わざとマッサージを下手にやったそうです(笑))

「第4回アジア大会」の日本代表メンバーに1年生でただ1人選ばれていた

さておき、大学1年生の春、東京六大学1号ホームランを放った田淵さんは、秋も、東大2回戦、慶應1回戦と、2戦連続ホームランを放つなど3本塁打すると、途中から3番も打つようになったそうで、オール学生で構成された「第4回アジア大会」の日本代表メンバーに、1年生でただ1人選ばれます。

(早稲田大学の安部球場で行われた練習では、レフト後方のネットを越える打球を連発して民家の瓦を何枚も割り、関係者が謝りに行ってくれたそうです)

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「第4回アジア大会」では場外ホームランを放ち球場の外野フェンスに名前が記される

そして、同年12月4日からフィリピン・マニラのリサール球場で行われた「第4回アジア大会」では、日本が5勝1敗で優勝したそうですが、

(「第4回アジア大会」は、フィリピン、韓国、台湾、日本の4ヶ国が2試合ずつ総当たりをしたそうです)

田淵さんも、フィリピン戦で場外ホームランを放つなどして活躍したそうで、外野フェンスには、ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースと共に、田淵さんの名前が記されたのだそうです。

(フィリピン・マニラのリサール球場で場外ホームランを放ったのは、日本人では初代・三冠王の中島治康さん(巨人)以来だったそうです)

「田淵幸一は東京六大学野球で通算22本塁打の新記録を達成していた!」に続く


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