阪神入団を拒否し、社会人野球に入ると明言するも、希望球団だった巨人の沢田幸夫スカウトと密会しようとしたところをスクープされ、観念して阪神に入団した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、背番号「22」を着けることになるのですが、この背番号は、既に前々年のドラフト1位だった西村公一選手から譲り受けたものだったほか、過去に、阪神で希望の背番号をもらった選手はほとんどいなかったといいます。

「田淵幸一の阪神入団は巨人スカウトとの密会がバレ止むを得ずだった!」からの続き

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巨人への思いを断ち切り阪神に入団

田淵さんは、1968年11月30日、阪神の戸沢一隆球団社長とスカウトの佐川直行渉外課長が、自宅を訪れてきて、当時の規定最高額の契約金一千万円、年俸180万円で仮契約を結んだそうで、

お父さんの綾男さんが、

阪神に入団した限りは、幸一はもちろん親族も今までの経緯を一掃し、阪神のために微力を尽くす決意であります

と、異例の声明文を読み上げたそうです。

そして、12月17日には、正式に阪神と契約し、阪神に入団すると、阪神入りを決めた以上は、巨人への思いはすっぱりと断ち切ったそうで、これまで憧れていた球団は、一転、最大の敵となり、「打倒巨人」を目指すようになったのだそうです。

背番号「22」は前々年ドラ1の西村公一から譲り受けていた

そんな田淵さんの背番号は「22」となったのですが、実は、「22」は、既に、1966年、第2回第2次ドラフトで1位指名された大型内野手・西村公一選手が着けていたものを譲ってもらったそうで、

田淵さんは、

いままでは西村(公一)選手が付けていたんでしょ。ちょっと申し訳ないけど、ボクは22が付けたかった。年齢が22歳だし、大学の記録が22。だから凄く縁起がいいんです

と、明かしているのですが、

(しかも、これまで、阪神で、「22」をつけていた選手は、後藤次男さん(2年間)、田宮謙次郎さん(6年間)ほか、錚々(そうそう)たるメンバーで、そう簡単に譲ってもらえる背番号ではありませんでした)

ほとんどの選手は、事前に球団が番号を調整し、新入団選手のために用意した背番号を付けていたそうで、

(時々、空き番号を幾つか提示され、その中から好きな番号を選ぶ場合もあったそうです)

多くの阪神OBたちが、

田淵さんぐらいじゃないかなぁ。自分の希望の番号を言って入団したのは

と、語っています。

(ちなみに、田淵さんの法政大学時代の背番号は、1年生から3年生まで「22」、4年生の時は、主将番号の「10」だったそうですが、阪神の背番号「10」は、藤村富美男さんの永久欠番だったため、さすがに「10」は、田淵さんが望んだとしても、無理だったかもしれません)

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幻の「三角トレード」の巨人の交換要員は分からず仕舞

ところで、田淵さんは、巨人が阪神に提案した「三角トレード」では、自分と誰をトレードしようとしていたのかを、ずっと知りたかったそうで、

後に、当時の巨人の監督だった川上哲治さんとゴルフで一緒になった際、時効だと思って聞いてみたそうですが、

さすがに、川上さんは、

あぁ、うぅ・・・それは・・・忘れてしまった

と、答えてくれなかったそうです。

(ちなみに、当時、トレード要員として名前が挙がっていたのは、俊足の柴田勲外野手(当時24歳)と、第1回ドラフトで1位だった堀内恒夫投手(当時20歳)だったそうです)

「田淵幸一は阪神入団直後「内角高め」が全く打てなかった!」に続く

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