1961年のシーズン終了後、川崎徳次監督の後任として西鉄ライオンズの選手兼任監督となると、2年目の1963年には、見事、リーグ優勝を果たした、中西太(なかにし ふとし)さんですが、1964年、5位に転落すると、オフに若林忠志ヘッドコーチが退団したことと相まり、球団と共に批判が殺到したといいます。

「中西太は兼任監督就任2年目で西鉄ライオンズを優勝に導いていた!」からの続き

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若林忠志ヘッドコーチの退団で球団と共に批判が殺到していた

1963年には、選手兼任監督就任2年目にして、西鉄ライオンズをリーグ優勝に導いた中西さんですが、翌1964年には、主力投手だった稲尾和久投手が肩の故障により長期離脱したため、5位に転落。

さらには、同年オフ、ヘッドコーチの若林忠志さんが西鉄を退団したことから、

中西さんと西鉄球団に、

チームの不振の責任を若林1人に負わせた

と、批判が殺到したといいます。

(一部の新聞では、中西さんとの不仲が原因で解任されたとも報道されたそうです)

若林忠志は末期ガンに冒されていた

実は、若林さんは、1964年3月、胃潰瘍で入院して手術しているのですが、実際には胃潰瘍ではなく、末期ガンだったそうで、医師は、胃を全摘し、奥さんに余命3カ月と伝えていたのだそうです。

(医師は、若林さんには3分の2を切ったと伝えたそうですが、若林さんも、胃潰瘍ではなくガンだとは気づくも、末期とは思っていなかったそうです)

ただ、西鉄の西亦次郎代表が、手術の後、病院に見舞いにいった知り合いから、執刀した医師が3本指を出した後、5本指にしたという話を聞き、もって「5年」と思ったそうで、

同年10月、若林さんに

ヘッドコーチは空席にし、回復されたら復帰してもらいます

と言って、技術顧問になってもらっていたのだそうです。

(コーチを続けたかった若林さんは、周囲が心配する程に落胆したそうです)

若林忠志本人は妻の意向で末期ガンを告知されていなかった

また、中西さんも、若林さんが末期ガンであることを奥さんから知らされていたそうですが、

見舞いに行く度に、若林さんが、

自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしい

と、言うのを聞き、

「涙が出るほど辛かった」と語っています。

結局、若林さんは、余命3ヶ月が1年もったそうで、1965年3月5日、57歳で他界されると、プロ野球葬が行われたそうですが、若林さんは最後まで明るかったといいます。

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若林忠志は西鉄リーグ優勝に多大なる貢献をしていた

それでは、最後に、若林さんの略歴をご紹介しましょう。

若林さんは、ハワイ出身の日系人で、法政大学を卒業後、コロムビアに入社するも、1935年12月、大阪タイガース(現・阪神タイガース)が発足すると、1936年1月にタイガースに入団して、在籍13年で233勝を挙げる活躍。

1950年には、2リーグ分裂に伴い、パ・リーグの毎日オリオンズ(現・ロッテマリーンズ)に移籍すると、1953年、45歳で引退しているのですが、通算237勝144敗、防御率1.99という素晴らしい成績を残しました。

(その間、1940~1941年は選手兼任助監督、1942~1944年、1947~1949年、1953年は選手兼任監督も務めています)

その後、1961年、大洋の二軍非常勤投手コーチとして球界に復帰すると、1963年には、西鉄のヘッドコーチに招かれ、まだ30歳だった中西さんの補佐を務め、

日系2世だった若林さんは、自ら渡米して、主軸となるトニー・ロイ選手、ジム・バーマ選手、ジョージ・ウィルソン選手ら外国人選手3名を連れて帰ってくるほか、長らく稲尾和久投手頼みだった投手陣を、田中勉投手、安部和春投手、若生忠男投手、畑隆幸投手、井上善夫投手ら、若手の投手陣を指導して、巧みな継投策を編み出し、1963年には、14.5ゲーム差をひっくり返す逆転優勝に大きく貢献したのでした。

「中西太は西鉄で兼任監督辞任と同時に現役引退もしていた!」に続く

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