終戦後、中国で捕虜収容所に入れられるも、強制労働をさせられることもなく、暴力を振るわれることもなく、もともと日本軍の施設だったことから、食料が豊富で、トンカツを食べることもできるほど、恵まれた暮らしを送っていたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、そこで開かれた野球大会では、高等小学校以来となる投手を務めたそうですが、痛めたはずの肩が治っていたといいます。
「杉下茂は終戦後は中国の捕虜収容所暮らしも恵まれていた?」からの続き
中国の捕虜収容所で野球チームを作るように命令されていた
中国では捕虜収容所に入れられるも、恵まれた生活をしていたという杉下さんですが、さらには、中隊対抗の野球大会まで開かれることになったそうで、
杉下さんは、中隊長に呼ばれて、
(野球強豪校の)帝京商業学校(現・帝京大学中学校・高等学校)で野球をやっていたんだろ?じゃあチームをつくれ
と、言われたそうで、
軟式とはいえ、また野球ができることがうれしかったそうです。
(ボールは軟式だったものの、なぜかグラブもバットも揃っていたそうです)
投手がおらず仕方なく投手を引き受けていた
こうして、杉下さんは早速、メンバーを募り、ポジションを決めるも、投手は候補者がおらず、仕方なく、杉下さんが引き受けることにしたそうですが、
思いのほか、いいボールを投げることができ、草野球レベルでは捕手がとれないほどだったそうで、結果、試合も快勝することができたのだそうです。
(杉下さんは、高等小学校までは投手だったのですが、帝京商業入学後すぐに右肩を痛めたことから、以来、一塁手に転向しており、まさか、投手としての投げ方を中国で思い出すとは思ってもみなかったそうです)
手榴弾の特訓が豪快なピッチングに役立っていた
ちなみに、杉下さんは、その後、日本でプロ野球選手として、素晴らしい成績を残しているのですが、
中国の収容所でも野球が行われたところは多かったはずだ。試合は中隊対抗で競い合った。投手をやる人間がいないので私が務めたが、驚いた。学生時代に肩を痛めていたのだが、うそのように痛みがなくなっていた。
手りゅう弾を投げる際に、遠心力を使って体全体で投げる癖がつき、それが奏功したのだろう。思い出したくない記憶だが、あれがなければ、私はプロ野球の投手にならなかったろう。人生とはわからないものだ
手りゅう弾は遠くへ投げるんじゃない。匍匐(ほふく)前進で近づいていって、15から20メートル先のトーチカめがけて投げる。距離よりコントロールなんです。
上体を起こすと撃たれちゃうから、なるべく伏せたまま体全体を使って、遠心力で投げる。その投げ方が身についたのが、野球につながったんじゃないかな
だいたい狙うのは20~25メートル先のトーチカです。立って放ると弾に当たるから匍匐のまま投げなくてはならない。でも1キロ近くある鉄の塊を寝っ転がったまま放れるわけがない。そこで考えたのが遠心力を利用した投法です。
鉄兜でガンと信管を突いて、腕を伸ばしたままドーンと放る。すると数秒後、20~30メートル先で爆発するんです。野球でいえばヒジを使わない投げ方。そして肩を丸く使う。これは手りゅう弾を投げることで覚えました
と、語っています。
「杉下茂は戦争から帰国後に社会人でノーヒットノーランを達成していた!」に続く