日本プロ野球界で初めてフォークボールを本格的に習得し、その直角に落ちる球は「魔球」と呼ばれたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、1950年代、国鉄スワローズのエースとして君臨していた金田正一さんとは、いつも投手戦を展開し、名勝負を繰り広げたといいます。
「杉下茂ら中日選手は天地俊一監督の為に優勝を目指していた!」からの続き
1年後輩の金田正一にピッチングや野球について教えていた
杉下さんは、金田さんより、8歳年上、プロ入りは1年先輩だそうですが、出会った当初、金田さんは、「スギさん、スギさん」と、とても人懐っこかったそうで、
杉下さんは、そんな金田さんに、「ピッチングとはこうだ」「野球は一人でやるもんじゃない」などと、教えていたそうです。
(杉下さんは1949年にプロ入り、金田さんはその翌年の1950年8月にプロ入り)
国鉄スワローズ戦で金田正一が先発の時はいつも登板していた
そして、やがて二人が中日ドラゴンズと国鉄スワローズのエースとして野球界に君臨するようになると、杉下さんは、天知俊一監督から「(金田さんを)お前がつぶせ」と厳命されたそうで、国鉄戦で金田さんが先発する試合は必ずといっていいほど杉下さんが投げたそうです。
ただ、杉下さんは、金田さんのことをライバルだとは思っておらず、
オレのピッチングを見てろ。勉強しろよ
と、思っていたのだそうです。
金田正一との投げ合いでノーヒットノーランを達成していた
ちなみに、杉下さんは、1955年5月10日、川崎球場で行われた国鉄戦では、金田さんと投げ合い、ノーヒット・ノーランを達成しているのですが(1対0)、
(この試合で杉下さんは四球を一つ出し、完全試合を逃しているのですが、四球を与えたのは金田さんだったそうです)
1957年8月21日、中日球場で行われたダブルヘッダー第2試合では、逆に金田さんが完全試合を達成しており、
杉下さんは、
あの日も試合前、スギさん、今日も投げ合おうと言われていたんだ。俺が九回に先制点を許すと、最後の回のボールはすごかった。できれば俺が最後の打者になりたかったな
と、語っています。
(この試合も1対0で、杉下さんも完投でした)
金田正一とはお互い認め合い尊敬する仲だった
そんな二人は、互いに認め合っていたそうで、
杉下さんは、
投げ合うことが楽しかった
と、語り、
金田さんも、
ワシが認める最高の投手はスギさんだ
と、語っています。
(そんな杉下さんと金田さんは二人とも、試合の前半は力を残してのらりくらりと投げ、7回くらいから力を入れて投げたほか、球数を少なくするため、無駄な球は投げずに3球勝負をしたそうで、3球三振が多かったそうです)
金田正一が死去した際のコメント
ちなみに、金田さんが、2019年10月6日、急性胆管炎による敗血症により、86歳で他界された際、
杉下さんは、
力が抜けちゃったよ。お互い投げすぎで腰は悪くなったが、あいつは昔から食事に気をつけて、内臓は丈夫だと思っていたからね
と、盟友の死を悼んでいます。
「杉下茂は33歳で兼任監督就任要請を受けるも実質的には監督専任だった!」に続く