1963年、阪神の一軍投手コーチに就任すると、解雇寸前だったジーン・バッキー投手を鍛え上げたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後、ヘッドコーチに昇格すると、1965年の10月には、監督に昇格するのですが、野田誠三オーナーからは、「若手登用」と「世代交代」を厳命され、苦慮したといいます。

「杉下茂は阪神投手コーチ時代ジーン・バッキーを鍛えていた!」からの続き

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藤本定義監督の辞任に伴いヘッドコーチから監督に昇格

1963年、阪神の一軍投手コーチに就任した杉下さんは、1965年にはヘッドコーチに昇格すると、村山実投手が25勝(最多勝&沢村賞)、ジーン・バッキー投手が18勝するほか、チーム防御率も2.47(リーグ最高)と、投手陣は結果を残したそうですが(チームは3位)、

10月初旬、藤本定義監督が持病のリウマチが悪化するなど体調不良から辞任を申し入れたそうで、これを野田誠三オーナー(電鉄本社社長)が了承。

同年10月28日には、大阪市北区の中華料理「新北京」での納会で、野田オーナーが、藤本監督の総監督就任と、杉下さんの監督昇格を発表したそうです。

藤本定義監督の後任監督になるのは既定路線だった

というのも、藤本さんは、著書「覇者の謀略」で、

必ず杉下を男にするからと(天知俊一さんに)頼んできてもらった

第一線を退こうという時、天知さんとの約束通り、杉下に監督を譲った

と、綴っており、

杉下さんは、1963年、高校時代からの恩師・天知俊一さんに呼び出されて、藤本監督を紹介され、阪神の投手コーチに就任していたのですが、この時から、将来、杉下さんが監督になることは決まっていたそうで、

10月23日、川崎球場(現・川崎富士見球技場)での大洋戦の後、定宿だった清水旅館で、戸沢一隆球団社長、佐川直行スカウト、藤本監督、杉下さんで「四者会談」が行われると、その際、杉下さんは、監督昇格を伝えられたのだそうです。

野田誠三オーナーから「若手登用」「世代交代」を厳命されていた

ただ、杉下さんは、監督就任時、野田誠三オーナー(電鉄本社社長)から、「若手登用」と「世代交代」を厳命されていたことから、チームは苦戦を強いられたそうで、

監督1年目の1966年は、開幕から連敗が目立ち、すぐに最下位に転落すると、「死のロード」では、(当時の)球団ワーストの8連敗を喫して、8月11日には、早くも50敗に達してしまったのだそうです。

(※甲子園球場を本拠地とする阪神は、夏、甲子園球場を高校球児たちに使用されるため、3週間以上の長期遠征を余儀なくされ、死のロードと呼ばれました)

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ベテランを使って負けると野田誠三オーナーから呼び出され詰問されていた

ちなみに、「若手登用」と「世代交代」の例としては、杉下さんは、前年の1965年秋、初めて開かれたドラフト会議で獲得した藤田平選手(和歌山市立和歌山高等学校で遊撃手として活躍)を、三塁手、遊撃手として起用したそうですが、遊撃には吉田義男選手がいたため、苦慮したそうで、

杉下さんは、

この年は新人で藤田平が入団し、藤田を試合で使うようオーナーから指令があったものの、当時の正遊撃手は吉田義男。峠は越していたかもしれないが、あれだけの吉田を使わずに高卒新人を使えというのは無茶な話だ。

この時は吉田を二塁に回して対応したが、随分頭を悩ませた

と、語っています。

また、このような若手の起用にベテランからは不満の声があがったそうですが、

杉下さんは、自伝「フォークボール一代」で、

ベテランを使って負けると、すぐオーナーのお呼びである。推参すると「なぜベテランを使った」とお叱りを受ける。側で総監督の藤本さんはにやにやしている。これには心底参った

と、綴っています。

「杉下茂は阪神監督時代に審判に抗議せず選手達の怒りを買っていた!」に続く

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