1966年には、阪神タイガースの監督に就任するも、そのシーズンの途中で解任となると、1968年には、中日ドラゴンズでも、監督に就任したシーズンの途中で解任されたという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、1975年には、巨人の一軍投手コーチに就任すると、チームの2連覇に貢献します。今回は、そんな杉下さんの、巨人コーチ時代と西武コーチ時代をご紹介します。

「杉下茂は再び中日監督に就任するも1年目のシーズン中に解任されていた!」からの続き

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巨人の一軍投手コーチに就任すると2連覇に貢献

杉下さんは、1975年のシーズン終了後、セ・リーグ会長の鈴木龍二さんから、

(最下位に終わった)巨人をどう思う?お前が何とかしてやれ

と言われ、読売ジャイアンツの一軍投手コーチに就任すると、

(巨人は、前年の1974年、長嶋茂雄さんが現役を引退し、監督に就任していたのですが、1975年は、長嶋さん自身の引退に加え、V9時代の主力選手に衰えが目立ち、球団史上初の最下位に終わっていました)

1976年には、太平洋クラブライオンズから移籍した加藤初投手が、史上51人目(62度目)のノーヒットノーランを達成し、15勝4敗の好成績を挙げるほか、前年5勝止まりだった小林繁投手が18勝、若手の新浦寿夫投手も11勝を挙げるなど、投手陣の活躍などでリーグ優勝。

続く1977年も、巨人キラーと言われていたヤクルトの浅野啓司投手を倉田誠投手とのトレードで獲得すると、全球団に勝ち越し、2位に15リーグ差をつけて連覇を達成します。

「地獄の伊東キャンプ」でAクラス入りも長嶋茂雄の監督解任に伴い一軍投手コーチを退任

しかし、1978年は、ヤクルトに敗れてリーグ優勝を逃し、2位に終わると、1979年には5位と低迷したことから、

1979年秋には、長嶋茂雄監督が若手と中堅を徹底的に鍛えようとハードな練習を課すと(地獄の伊東キャンプ)、1980年には、長嶋さんの監督留任条件である、Aクラス(3位)を確保したそうで、

杉下さんは、長嶋監督とコーヒーを飲みながら、

伊東の成果が出ましたね。江川を筆頭に投手陣は盤石。来年は優勝できます

と、話していたそうですが・・・

長嶋さんは、突然、監督を解任され、杉下さんも投手コーチを退任したのでした。

(長嶋さんは、前監督の川上哲治さんとその一派によって監督の座を追われたとされています)

長嶋茂雄に投手たちと共に正座させられていた

ちなみに、杉下さんは、長嶋さんに投手運用を任されていたそうで、

最下位になった年(1975年)の秋に呼ばれて、投手ばかり見てましたよ。『お父ちゃんの好きなようにやってね』と言われましてね、この時は堀内(恒夫)に、小林(繁)、新浦(壽夫)ですか。残ったのはその3人だけで、あとの投手陣はガラっと変えましたよ。長島監督も面倒見のいい監督でした

と、語っているのですが、

1976~1979年、巨人で投手を務めていた小俣進さんによると、ある試合で投手陣が四球を連発して大負けしたことがあり、試合後、投手全員、長島監督に監督室に呼び出され、正座させられて震えていたそうですが、

(この時、長嶋監督はまだ40歳くらいで血気盛んだったことから、野球に関してはとても怖かったそうです)

その中には、投手コーチの責任でもあるからと、杉下さんまでもが正座させられていたといいます。

ただ、長嶋監督は瞬間湯沸かし器のように、カーッとなると状況が見えなくなり、興奮するとユニフォームを脱ぎ始め、お風呂に入ってしまうそうで、この時も、同様にお風呂に入り、出てくると、

なんだ君たち、どーしたの?ユニホームを着たまま座って?

と、すっかり、自分がやったことを忘れていたのだそうです(笑)

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西武ライオンズでの投手コーチはが一番楽な仕事だった

さておき、杉下さんは、巨人の投手コーチを1980年限りで退任し、TBSの野球解説者に復帰すると、1993年からは、西武ライオンズの一軍投手コーチに就任しているのですが、

当時、西武は、野手では、清原和博選手、秋山幸二選手、投手では、工藤公康投手、郭泰源投手、渡辺久信投手など戦力が充実していたことから、

杉下さんは、

寝ていても勝てるような布陣

選手を、というより森(森祇晶投手コーチ)を一人前にするのが仕事だった。郭・渡辺・工藤・潮崎・鹿取らが主力だからコーチなんか要らない。色んな球団に行ったけど一番楽だった

と、語っています。

「杉下茂の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」に続く

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