1954年、早稲田大学から巨人に入団すると、1年目から遊撃手のレギュラーとなって、新人王とベストナインに選ばれ、引退後は、監督としても、1978年には、ヤクルトで初のリーグ優勝&日本一、1982~1985年には、西武で3度のリーグ優勝&2度の日本一となった、広岡達朗(ひろおか たつろう)さん。今回は、そんな広岡さんの幼少期をご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
広岡さんは、1932年2月9日生まれ、
広島県呉市の出身、
身長180センチ、
体重70キロ、
学歴は、
五番町小学校(現・呉市立呉中央小学校(呉中央学園))
⇒呉第一中学校(1948年、学制改革で呉竹高校⇒現・広島県立呉三津田高校)
⇒早稲田大学教育学部社会科卒業
ちなみに、「広岡達朗」は本名で、愛称は、「ヒロ(さん)」です。
父親は職業軍人だった
広岡さんのお父さんの誠一さんは、兵庫県姫路市にある農家で誕生すると、子供の頃は、神童と言われるほど成績が良かったそうで、実家の農業を継ぐのが嫌で、志願して軍人になると、大変な努力の末、試験に合格し、大尉に昇格、戦後には、1階級特進し、いわゆる「ポツダム少佐」になったそうです。
(「ポツダム少佐」とは、ポツダム宣言受諾後、戦闘が基本的に終了した8月15日~11月30日まで継続した陸軍省と海軍省によって、この間の日本軍において少佐に任官した軍人のことを言うそうです)
ちなみに、誠一さんは、戦地に赴いて、しばらくすると港に戻り、各地の港に(広岡さんの)お母さんが迎えに行く、という生活を繰り返していたそうで、広岡さんの兄姉は、各地で誕生したそうですが、広岡さんは、家族が呉市に落ち着いてから誕生した子供だったそうです。
父親は厳格だったが、母親は優しかった
さておき、広岡さんは、そんな、大日本帝国海軍少佐で駆逐艦の機関長だった、お父さん・誠一さんとお母さんのこみゑさんのもと、6人兄弟(兄5人、姉1人)の末っ子として誕生すると、
厳格だったお父さんからは、「誰にも負けてはいかん」と教えられたそうで、広岡さんが、クラスの副級長になると、お父さんは「なぜ級長じゃないんだ」と不満そうにしていたそうです。
一方、お母さんはというと、人が嫌がるようなことは言わず、世話好きで頼まれ事は断らないなど、まるで仏様のような人だったそうで、広岡さんは、お母さんが大好きだったそうです。
幼い頃は軍人に憧れていた
そんな広岡さんは、幼い頃、お父さんの横をよちよち歩いていた際、水兵のグループとすれ違うと、リーダー格の一人が「かしら右」と言い、上官であるお父さんに向け一斉に敬礼したそうで、それが誇らしく、自然と、軍人に憧れるようになったそうです。
(と同時に、マントを羽織って歩いていた軍人の姿にも惚れ惚れしたのだそうです)
幼少期は両親や兄姉の愛情を一心に受けてすくすくと育つ
また、末っ子の広岡さんは、甘えん坊で、小学6年生まで、お母さんと一緒に寝ていたそうですが、お兄さんやお姉さんからもかわいがられたそうです。
特に、一回り年齢が離れた一番上のお兄さんは、とてもかわいがってくれたことから、兄姉の中で一番好きだったそうで、お兄さんが勉強中は、構ってほしくて机の周りをよく走り回ったりしていたのだそうです。
また、4歳上の兄・富夫さんは、「いつまでも甘えてちゃいかんぞ」と、からかいつつも、いつも通学時に手をつないでくれたそうで、広岡さんは、両親や兄姉の愛情を一心に受けて、すくすくと育ったのだそうです。
(富夫さんは、後に、公務員(広島県庁)から広島東洋カープに入団し、1957年に広島市民球場でチーム第1号本塁打を放ったそうです)
「広岡達朗は少年時代に広島で原爆による黒い雨を見ていた!」に続く