海軍で駆逐艦の機関長だったお父さんが水兵たちから一斉に敬礼される姿に憧れ、海軍兵学校に行くべく、勉強と共に運動にも励んでいたという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、終戦したことから、バレーボールか、お父さんから「紳士のスポーツ」と聞かされていたテニスをしようと思っていたそうですが、野球部員に勧誘され、野球部に入部したといいます。

「広岡達朗は少年時代に広島で原爆による黒い雨を見ていた!」からの続き

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テニスかバレーボールをしようと思っていたが・・・

海軍兵学校に行くべく、勉強と共に運動にも励んでいたという広岡さんは、終戦後は、バレーボールか、お父さんから「紳士のスポーツ」と聞かされていたテニスをしようと思っていたそうですが、

すぐ上のお兄さんの野球のグラブで、お父さんとキャッチボールをしているところを、年上の野球部員に見られ、物が全くない時代だったことから、用具目当てに野球部に勧誘されたそうです。

野球部ではボロボロになったボールの縫直しをするほか資金のためバイトをしていた

実は広岡さんは、お父さんから「ほえるのは弱い犬。大声を出すのは肝心な時でいい」と教えられていたため、ヤジが嫌いで、野球をやろうとは思っていなかったそうですが、結局は、野球部に入部したそうです。

すると、野球部は弱小で、部費は少なく、練習でボールが駄目になると、みんなで縫って直したそうですが、縫っても直らないほど古くなると練習は休みとなり、その間、各自がバイトして100円ずつ持ってこなければならなかったそうで、広岡さんは、「神谷せっけん工場」という所で力仕事をしてアルバイト代を稼いだのだそうです。

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高校時代は三塁で激しいノックを受けていた

そんな中でも、広岡さんは、いつしか野球にはまっていったそうで、高校生の時には、三塁を守っていたそうですが、

(器械体操や懸垂で鍛えていたことから、肩がとても強かったほか、運動神経に自信があり、どのポジションもできたそうです)

野球部員は9人だけで、専門コーチがいない中、3年生の時だけ、専修大学の上川さんという学生が、臨時コーチとして来てくれたそうで

(高3からようやく本格的な練習をするようになったそうです)

上川さんからは、マウンドから本塁までの近距離で激しいノックの雨を浴びせられ、ボールを捕らないとケガをすることから、必死にならざるを得ず、この経験から、理屈抜きで強い球を捕ることの大事さを知ったのだそうです。

「広岡達朗は早稲田大学時代に三塁手から遊撃手に転向していた!」に続く

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