大学4年生の終わり頃に、憧れの巨人から誘われた、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、東京六大学野球のスター選手として、鳴り物入りで巨人に入団したそうですが、待っていたのは、とても厳しい上下関係だったといいます。

「広岡達朗は大学時代「早稲田の貴公子」と呼ばれていた!」からの続き

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巨人は上下関係が厳しかった

広岡さんは、1954年、東京六大学野球のスター選手として、鳴り物入りで巨人に入団するのですが、皆から歓迎されたわけではなく、バッティングケージに入って10球ほど打つと、どこからかバットが飛んできたそうで、

初めは、誰かが手を滑らせたのかと思っていたそうですが、やがて、「いつまでも打ってないで早く出ろ!」という合図だということが分かったのだそうです。

(それほど、当時の巨人は上下関係が厳しかったそうです)

川上哲治らから「誰がこんな選手取った」と聞こえるように言われたことも

ちなみに、広岡さんは、入団当初、肩と足には自信があったため、守備はそれほど戸惑わなかったそうですが、打撃は全くダメだったそうで、広岡さんのフリー打撃が始まると、川上哲治さんや千葉茂さんら、そうそうたる先輩たちが打撃ケージ裏に集まってきたそうですが、そんな状況で、いい当たりが出るはずもなく、

川上さんらからは、わざと、聞こえるように、

誰がこんな選手取ったんだ

と、言われたこともあったといいます。

(先輩たちは、見る価値もないと思ったのか、途中からいなくなったそうです)

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新人時代は打撃を教えてくれる人がおらず悩んでいた

そこで、広岡さんは、悩んだ末、ある時、川上哲治さんに、「教えてください」とお願いしたそうですが、川上さんは一瞥(いちべつ)しただけで教えてはくれなかったそうです。

(「10年早いわ」というような顔をされたそうです)

また、川上さんはともかく、ほかの選手も、教えてくれるどころか、「この新人をいかに引きずり下ろそうか」ということばかり考えていたそうで、当時のプロは真の勝負師ぞろいという、シビアな世界だったのだそうです。

(ちなみに、首脳陣は、広岡さんにとっては、おじいちゃんくらい年が離れており、「元気出すにはこれだ」と注射を打つまねをして笑っていたそうで、広岡さんは途方に暮れたそうです)

「広岡達朗は平井三郎に教えてもらい新人王を獲得していた!」に続く

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