引退後、数ヶ月に渡ってメジャーリーグを視察すると、日本の野球との大きな違いに気づいたほか、帰国後は、サンケイスポーツの北川貞二郎運動部長から、文章を書くうえで、「一点絞り」の重要性を学んだという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんですが、1969年には、広島東洋カープの根本陸夫監督に要請され、内野守備コーチに就任すると、根本監督に頼み込まれて、苑田聡彦を正遊撃手に育て上げ、選手を育てる意味と意義を学んだといいます。

「広岡達朗は引退後メジャーを視察し日本との大きな違いに気づいていた!」からの続き

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広島東洋カープの根本陸夫監督に要請され内野守備コーチに就任

広岡さんは、1969年の大晦日(おおみそか)、広島東洋カープの根本陸夫監督に内野守備コーチのオファーを受け、一度は断ったそうですが、根本監督に強く説得され、広島の守備コーチに就任したそうで、

広岡さんは、

広島はよくしつけの行き届いたチームだと思いましたね。合宿所に入るとすぐに衣笠(祥雄)があいさつに来たし、野球に対して一生懸命に取り組んでいました

と、語っています。

(当時、広島は一度もリーグ制覇したことがない弱小チームで、松田耕平オーナー代行が「うちは道楽で野球をしているのではない。強化のため人材育成に力を入れる」という方針を打ち出していたそうで、その一環として根本陸夫監督にコーチを打診されたのだそうです)

苑田聡彦外野手を内野手へ転向させるよう要請されるも当初はさじを投げていた

ちなみに、広岡さんは、根本監督に、西本明和投手を投手から三塁手、井上弘昭選手を外野手から二塁手、苑田聡彦選手を外野手から内野手へ育成するよう要請されたそうですが、

当初は、その中で、いつまでも上達しない苑田選手の守備を見て、

内野のセンスはゼロですね。教えても絶対に上達しない。私が保証しますよ。苑田だけは勘弁して下さい

と、(外野に戻したほうがいいと)言っていたそうです。

苑田聡彦を正遊撃手に育てあげ、選手を育てる意味と意義を学んでいた

ただ、根本監督からは、

おれが責任をとるから辛抱して教えてくれ

と、頼まれたそうで、

仕方なく、そのまま、苑田選手の指導を続けると、粘り強い指導の甲斐あって、苑田選手の守備力はレベルアップし、正遊撃にまで成長したそうで、

広岡さんは、根気強く続ければ、人は必ず育つこと、そして、選手を育てるということの意味と意義を学んだのだそうです。

(ただ、苑田選手は、厳しい指導の中、ストレスで円形脱毛症になったといいます)

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苑田聡彦によるコメント

ちなみに、苑田さんは、1975年の広島初優勝にも貢献したそうですが、

苑田さんは、

野球の基本は一から十までを広岡さんに教わりました

厳しかったです。キャッチボールからですからね。よく胸にめがけて投げろというが、今の選手は片手で捕球するじゃないですか。でも片手で捕るのはロスが生まれるから、両手のほうが投げやすくなる。

うちで両手で捕球するのは田中広輔ぐらいですが、その瞬間にちょっとだけ右腰を入れるのが、すぐに投げる動作に入りやすいんです

広岡さんは強いノックはしなかった。強い打球は体が逃げると言った。また逃げるというのは基本が出来ていない証拠だと。正面に20本打つと、次は右、左・・・ずーっと緩い打球のノックで練習が続きました。それに自ら手本を示すのですが、それが実にうまいんですよ

それと広岡さんはアウトにしただけではダメなんです。ボールを投げたら一塁手のミットに入るまで気持ちが入ってないと『なんだ、そのプレーは!』と叱られました。

それまで捕ってアウトにすればいいと思っていたが『気がこもったプレーをしなさい』と指導されました。今の立場になっても、わたしは同じ考えをもって選手をみています(※苑田さんは現役引退後はスカウトとして活動しています)

と、語っています。

(また、広岡さんは、スカウティングでも、江藤智選手、金本知憲選手、黒田博樹選手ら、後に広島を代表する選手のドラフトにも関わったそうです)

「広岡達朗は監督1年目でヤクルトを球団史上初の2位に導いていた!」に続く

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