1976年途中にヤクルトの監督代理となり、1977年には正式にヤクルトの監督に就任すると、これまでのファミリー的だった雰囲気を一掃して、厳しい管理体制を敷き、休日返上で反復練習をさせるなど、180度真逆の方針を打ち出し、結果、ヤクルトを史上初の2位に導いた、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんですが、この結果に満足せず、当時ではまだ珍しかったシーズンオフのトレーニング導入や、選手の意識改革にも積極的に乗り出し、翌1978年には、ヤクルトを球団史上初のリーグ優勝&日本一に導いたといいます。
「広岡達朗は監督1年目でヤクルトを球団史上初の2位に導いていた!」からの続き
ヤクルトを球団史上初の2位に導くも満足していなかった
1977年、監督就任1年目にして、弱小だったヤクルトを球団史上初の2位に導いた広岡さんですが、それでも2位という結果には満足しなかったそうで、
まだ、選手たちの基礎体力が十分でないと判断して、ドジャースタウンで見た立派なトレーニング施設を思い出し、専門家の指導によるウエイトトレーニングを導入するほか、
(当時は、シーズンオフにトレーニングを行う発想はなく、不平不満を言う選手もいたそうです)
ヤクルトナインには、拭い難い「巨人コンプレックス」があったことから、優勝するためには、この巨人コンプレックスを払拭しなければならないと、松園尚巳オーナーに米国キャンプを直談判したそうです。
(メジャーチームとキャンプしたんだという自信を持つことも巨人へのコンプレックスを払拭するために有効だと考えたそうです)
ヤクルトを初のリーグ優勝&日本一に導く
すると、松園オーナーは、「(ヤクルトの工場がある)ブラジルならいい」と言ったそうで、広岡さんがこれを拒否すると、松園オーナーは「負けたらどうする?」と聞いてきたそうで、広岡さんは、「責任を取って辞めます」と答えたのだそうです。
こうして、広岡さんは、1978年、ヤクルト初の海外キャンプをアメリカ・アリゾナ州ユマで敢行すると、サンディエゴ・パドレスとの合同練習で、ヤクルトナインの「巨人コンプレックス」が払拭できたほか、
サンディエゴ・パドレスの選手が練習の合間に黙々とウエイトトレーニングをやっている姿を実際に選手が目で見ることが出来たことも大きな収穫となったそうで、
同年、チームは創設29年目にしてセ・リーグを制覇し、日本シリーズでも、4年連続日本一を狙う阪急ブレーブスを、4勝3敗で倒して、初の日本一に輝いたのでした。
指導者としての自分があるのは苑田のお陰と言っていた
ちなみに、広岡さんは、
(広島カープの)苑田は1年半、(ヤクルトの)水谷は3年かかりました。でも指導するほうが選手をやる気にさせて、正しい教育を根気強く続ければ、人は必ず育つ。わたしはそれを選手から気づかされ、教えられたのです
指導者としての自分があるのは苑田のおかげ
プロに来る選手は誰でも大変な才能を持っている。しかし、答えの出し方を知らないから自分には才能が無いと思い込んでしまう。その答えを泥まみれになりながら選手と共に探してやるのが指導者の務め。
選手と指導者にやる気があれば、選手は必ずや答えを見つけて上達してくれる
と、語っています。
「広岡達朗はヤクルトを日本一に導いた時点で監督辞任を決意していた!」に続く