1981年10月29日、西武ライオンズの監督に就任すると、まず、はじめに、選手たちの食生活の改善を行ったという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、その後も、(ヤクルト時代同様)厳しい管理体制のもと、守備重視の野球を行うと、低迷していたベテランの田淵幸一選手や山崎裕之選手が復活したこともあり、1982年、初のリーグ優勝&日本一に輝くと、翌年の1983年には、宿敵・巨人を倒し、見事、2年連続日本一に輝きます。
「広岡達朗は西武監督でもヤクルト監督時代と同様に選手を管理していた!」からの続き
田淵幸一が起死回生となる逆転2ランホームランを放っていた
広岡さんは、西武ライオンズでも、(ヤクルト時代と同様に)厳しい管理体制を敷き、守備重視の野球を行うと、低迷していたベテランの田淵幸一選手や山崎裕之選手が復活を果たすなど、これらが功を奏したそうで、
1982年5月11日に首位に立つと、6月12日には首位から陥落するも、前期終了まで残り6試合の時点で、首位阪急に0.5ゲーム差でぴったり2位につけている状況だったそうで、
6月20日、南海とのダブルヘッダー第1試合では、3対4とリードを許していた9回、無死三塁のチャンスで代打で登場した田淵さんが、起死回生となる、左翼席への逆転2ランホームラン(15号)を放ち、勝利したそうです。
西武ライオンズを初のリーグ優勝&日本一に導く
そして、この勢いのまま、第2試合も勝った西武は、再び首位となると、そのまま、前期優勝を果たし、その後、10月9日から14日に行われた後期優勝の日本ハムとのプレーオフも3勝1敗で制し、球団創設19年で初のリーグ優勝。
10月23日から30日に行われた、日本シリーズでも、中日ドラゴンズを4勝2敗で下し、球団24年ぶりの日本一を達成したのでした。
ちなみに、プレーオフで敗れた日本ハムファイターズの大沢啓二監督は、
『近鉄とロッテさえ注意すりゃあ優勝は間違いねえ』と思ってたんだ。ところが蓋を開けてビックリよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。
広岡が(監督就任)一年目で優勝なんてなかなか出来るもんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたよ
と、語っています。
(※パシフィック・リーグでは、1973年から1982年までの10年間、2シーズン制とプレーオフ制度を採用しており、1年を65試合ずつの前期・後期に分け、前期優勝チームと後期優勝チームが5回戦制のプレーオフを実施し、年度優勝を争っていました)
日本シリーズでは巨人を破って日本一に輝いていた
そんな広岡さんは、翌年1983年も、2位の阪急ブレーブスに17ゲーム差を付ける独走で西武ライオンズをリーグ優勝(連覇)に導くと、古巣・巨人との日本シリーズでは、
(広岡さんは、巨人を倒して日本一に輝くことで、自分の野球の正しさを証明しようと取り組んできたため、待ちに待った舞台となったそうです)
シリーズ新記録となる3度のサヨナラ試合、第3戦以降は先取点を取った方が負けという逆転に次ぐ逆転が相次ぎ、激闘の結果、4勝3敗で巨人を制し、西武が2年連続日本一となったのでした。
(巨人の藤田元司監督とは、かつてのチームメイトだったことから、この対戦は、「球界の盟主の座を賭けた戦い」として、日本中から注目を集めた戦いとなり、テレビ中継の視聴率も連日40%を超えたそうで、今なお、日本シリーズ屈指の名勝負と讃えられています)
ミーティングの始めにおちゃらけながらアカペラを歌って選手たちを鼓舞していた
ちなみに、この日本シリーズ第5戦で巨人が地元・後楽園球場で勝利し、3勝2敗と巨人が日本一に王手をかけた際、西武の選手たちは王手をかけられたことや巨人の西本聖投手に2連敗したことで狼狽(ろうばい)し、「やはり巨人には敵わない」と肩を落として地元に帰ってきたそうですが、
(西武は前年の1982年に日本一になったものの、この時は、まだまだ常勝軍団と言えるチームではなかったそうです)
そんな落ち込んだ選手たちの雰囲気を感じとった広岡さんは、ミーティングのはじめに、なんと、おちゃらけながらアカペラで1曲歌を歌ったそうで、
その後、
ここまでは計算通り。絶対に勝てるんだ!
と、黒板いっぱいに巨人対策を書き連ね、選手を奮起させたのだそうです。
(この作戦は、「Vのシナリオ」と言われています)
「広岡達朗が西武監督時代4年で優勝3回&日本一2回も突然辞任した理由とは?」に続く
1983年、巨人を破って西武を2年連続日本一に導き、胴上げされる広岡さん。