同志社大学への進学が決まっていた中、授業料免除の条件で立命館大学に誘われ、同志社大学を断り、立命館大学に入学したという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、入学前に、早稲田大学との練習試合に参加すると、長身をしなやかに使った華麗な守備をすることで評判だった広岡達朗さんを初めて見たといいます。
「吉田義男は立命館大学に授業料免除の条件で進学していた!」からの続き
広岡達朗とはお互い意識し合っていた
立命館大学への進学が決まった吉田さんは、入学前に春の東京遠征に同行したそうですが、早稲田大学の安倍球場で練習試合が行われた際には、スマートな名撃手だと評判だった広岡達朗さんを初めて見たそうで、東京のエリートを見て、吉田さんは燃えたそうです。
一方、広岡さんも、早稲田大学の森茂雄監督が、立命館大学の試合前の練習を見て、
むこうのショートの吉田というのは上手だな。うちの広岡よりも上だ
と、話しているのを聞き、プライドが刺激され、吉田さんを意識して試合に臨んでいたのだそうです。
併殺に仕留めたはずが広岡達朗はトップスピードのままスライディングしてきた
そんな中、試合の中盤、広岡さんが一塁走者で、次の打者が平凡な内野ゴロを打ったことから、吉田さんは、おあつらえむきの併殺コースと、二塁ベース上で送球を受け、素早く一塁へ転送して併殺を完成させたそうですが・・・
その瞬間、併殺を逃れようと、トップスピードのままスライディングしてきた広岡さんの足が、吉田さんの足元に絡んできたそうで、
吉田さんは、とっさに体をかわして、直撃だけは避けることができたそうですが、スパイクの金具で左の向うずねをえぐられたそうで、激痛が走ったのだそうです。
(ストッキングは破れ流血していたそうで、かわすのがもう少し遅れていたら 骨折していたかもしれなかったそうです)
広岡達朗のスライディングをきっかけに相手に隙を見せないプレーを心がけるようになった
それでも、吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、
私のよけ方がイージーだったのだ。完全な併殺コースと決めてかかって、走者への備えができていなかった。その隙を突こうとした広岡さんの緻密で激しいプレーが、私の甘さ、技術の未熟さを教えてくれた。
と、綴っており、
吉田さんは、このことがきっかけで、併殺プレーやタッチプレーの際は、相手に隙を見せないプレーを心掛け、左右どちらにも身をかわせる動きを工夫するほか、ジャンピングスロー(ジャンプしながら送球すること)の習得にも励むようになったのだそうです。
(早稲田大学は、広岡さんのほかにも、岩本堯さん、小森光生さん、荒川博さん、と名選手ぞろいだったそうで、立命館大学は歯が立たなかったそうですが、吉田さんにとっては、今も残る左足の傷跡と引き換えに大きな収穫を得た交流戦だったそうです)
広岡達朗とは現在も親しく会話
また、吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、
広岡さんとは、巨人と阪神に分かれてプロ入りした後も、ライバルとして比較されることが多かった。私が監督としてたった一度だけリーグ優勝した昭和60年は、日本シリーズの相手が広岡さん率いる西武ライオンズだった。
また、平成4年には二人そろって野球殿堂入りの栄誉も受けた。どこか因縁めいたものを感じる。
「結局、プレイヤーとしては、森監督が見込んだ通り、君のほうが上だったな」と私を立ててくださる広岡さんの名誉のために、監督としての実績は広岡さんの方がはるかに上であることを明記しておく。
広岡さんとは、今でも会合などで年に一度は顔を合わせて親しく会話を交わす。野球界のために、もっと表面に出て、リーダーシップを発揮していただきたい先輩の一人だ。
とも、綴っています。
「吉田義男は大学1年の時に阪神(大阪)タイガースからスカウトされていた!」に続く