ルーキーながら正遊撃手となるも、失策が多く、藤村隆投手をはじめ、先輩たちからよく怒鳴られていたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、一塁手の藤村富美男選手にも、少しでも送球がそれると捕球してもらえなかったそうで、どのような送球をすれば怒られないで済むかばかりを考えていたそうですが、松木謙治郎監督には、「人は失敗して覚える」と、辛抱強く遊撃手で使い続けてもらったといいます。
「吉田義男はルーキーで正遊撃手になるも投手によく怒鳴られていた!」からの続き
新人の時には内野手はベテランばかりだった
吉田さんが新人時代の阪神タイガースの内野の布陣は、一塁手が藤村富美男選手(37歳)、二塁手が白坂長栄選手(30歳)、三塁手がハワイ出身二世の与儀真助選手(25歳)と、遊撃手の吉田さん(20歳)以外、ベテランばかりだったそうで、
よほど気合を入れていかないと自分一人で足を引っ張ってしまうことになると、プレッシャーを感じていたそうです。
藤村富美男は送球が少しでもそれると捕球してくれなかった
特に、ミスタータイガースと呼ばれていた藤村選手は、三塁手から一塁手に転向したばかりで、(打撃は依然として輝いていたものの)不慣れな一塁守備で苦しんでおり、吉田さんの送球が、少しでもそれたり、ワンバウンドしたりすると、捕ってくれなかったうえ、弟の藤村隆男投手を上回る怖さだったそうで、
吉田さんはどのような一塁送球をすれば怒られないかとばかり考え、藤村選手に捕ってもらえるような正確な送球を目標にしていたそうですが、
ある時、吉田さんが併殺プレーで低く伸びる送球をすると、藤村選手はミットの土手に当ててぽろりと落としたそうで、これだと怒りようがなく、それからというもの、藤村選手は一塁ベースへ入る動きが素早くなり、転送球をさあ来いという顔で待つようになったのだそうです。
(この年(1953年)、吉田さんは192併殺を記録しているのですが、現在もこの記録は更新されていません)
藤村富美男にはバッテイングをアドバイスされたほか精神面でも大きな影響を受けていた
ちなみに、藤村富美男選手には、時々、バッティングについて、
重いマスコットバットで素振りをしろ。そして、常にバットのヘッドを立てて、手首よりもヘッドが先に出る感覚をつかむんだ。わかったか
と、アドバイスをしてもらったそうですが、
それ以外にも、野球に対する姿勢や、タイガースを愛する心など、精神面でも大きな影響を受けたそうで、この不世出のスーパースターと5年間にわたって同じグラウンドに立てたことは、吉田さんの大きな財産、大きな誇りとなったのだそうです。
(この年(1953年)、藤村選手は、打率こそ2割9分4厘と3割をわずかに切ったそうですが、27本塁打、98打点をマークして、二度目の2冠王に輝いたそうです)
エラーが続いても松木謙治郎監督は遊撃手として使い続けてくれた
さておき、吉田さんのエラーは一向に減らなかったそうで(1年目は128試合出場で38失策)、「牛若丸は失策王」とも言われたそうですが、これだけエラーしても、松木謙治郎監督は、「人は失敗して覚える」が口癖で、吉田さんがエラーしてしょげていると、「もう一つエラーしてみろ」と言い、辛抱強く遊撃手で使い続けてくれたそうで、
吉田さんは、著書「牛若丸の履歴書」で、
プロで最初に巡り合った監督がこの人でなければ、以降のわたしはなかったと思う。この恩人の選手育成法を後に監督をするようになった時、私はよく借用させてもらった。
印象に残るのは、現オリックス球団本部長の中村勝広(※2015年に他界)が阪神の二塁手だったときのケース。失策すると、守りが消極的になる傾向があった。「何を恐れている。もう一つエラーをしてみろ」と声をかけた。即効薬になるとは限らないが、指導者は長い目で人を見なければならないとつくづく思った。
著書「阪神タイガース」でも、
オープン戦中盤頃からショートのレギュラーに定着させてもらった私は、1年目のシーズンを通して128試合に出場し、38もの失策をしでかした。それでも私を使い続けてくれた松木監督のおかげで、1試合ごとに、1年ごとに、ステップアップできたのである。
実戦での経験が何よりの宝になる。試合での痛い失敗を積み重ねながら、選手は成長していくものだ。また、タイガースの先輩や、他チームのうまい人のプレーを観察して、私はよいところを貪欲に吸収しようとした。
口幅ったい言い方を許してもらえば、〝吉田流〟の守備は、そうした創意工夫を重ねて追求していったものゆえに、自分でも納得できる域に達するまでには時間が必要だった。
幸い、素晴らしい教材にはことかかなかった。前述した巨人の広岡さんもそうだし、西鉄の三塁手だった中西太さん、広島の名遊撃手・白石勝巳さん、南海の遊撃手・木塚忠助さん、そしてタイガースの大先輩・藤村(富美男)さん。そういった方々のグラブさばきやフットワークを、私は目を皿のようにして研究したものだ。
と、綴っています。
「吉田義男は松木監督のお陰もありプロ入り2年目に盗塁王に輝いていた!」に続く