1954年のシーズン終了後、松木謙治郎監督が試合中の不祥事の責任を取って辞任した際、選手兼任助監督だった藤村富美男(ふじむら ふみお)さんを後任監督に推薦したことから、1955年からは、藤村さんが監督になるだろうと噂されていたのですが、野田誠三・阪神オーナーが自ら動き、中央球界で全く無名だった岸一郎さんが後任監督に就任したといいます。
「藤村富美男は松木謙治郎監督にかばってもらっていた!」からの続き
松木謙治郎監督に後任監督に推薦されるも野田オーナーの以降で無名の岸一郎が監督に就任
1954年のシーズン終了後、松木謙治郎監督が試合中の不祥事(難波事件)の責任を取って辞任すると、その際、松木監督が選手兼任助監督だった藤村富美男さんを後任に推薦したそうで、1955年からは、藤村さんが監督に昇格するだろうと言われていたのですが・・・
一方、田中義一球団代表は、セ・リーグの鈴木龍二会長を通じて藤本定義さんの招聘を目指すも失敗。その後、野田誠三オーナー自ら動き、中央球界で全く無名だった岸一郎さんを後任監督に就任させたのだそうです。
(松木謙治郎監督は、1936年、26歳の時、前年の暮れに創設されたばかりの阪神(大阪)タイガースに入団すると、年長で選手間の人望も厚かったことから、キャプテンを務めた後、1940年には選手兼任監督に就任したそうですが、翌年の1941年には、現役を引退すると同時に監督も退任。ただ、その後、2リーグ制に移行した1950年には、再び、阪神(大阪)タイガースで選手兼任監督に復帰すると、プロ野球再編問題の中、主力選手を毎日オリオンズに引き抜かれて弱体化した阪神(大阪)タイガースの再建に力を尽くしたそうです)
新監督・岸一郎はプロ野球の経験がなかった
ただ、岸さんは、早稲田大学を卒業後、大連の満鉄本社に勤務し、満鉄のエースとして活躍した時代があったものの、野球界からはもう30年も離れていたそうで、
(そもそも、阪神はおろか、プロ野球の経験がまったくなかったそうです)
この不可解としか言いようのない人事に、阪神ナインには、(松木監督が辞任した時以上に)動揺が広がったそうです。
(岸さんはとても穏やかな人柄で、問題山積みの阪神(大阪)タイガースを率いるのは難しいと言われたようです)
新監督・岸一郎が監督に起用された理由とは?
そんな岸さんが監督に起用された経緯には、二つの異なる話があるそうで、
まず、一つ目は、野田誠三オーナーが所用で運輸省を訪れた際、雑談で「次期監督を探している」と話したところ、岸さんを紹介され、断り切れなかったいう話。(上田賢一さんの「猛虎伝説」より)
もう一つは、岸さんが、毎試合のように球団に投書を送り指南していたところ、目をつけられたという話があるそうです。
新監督・岸一郎の采配に藤村富美男らベテランは激しく反発していた
さておき、岸監督は、ベテランも若手も分け隔てなく起用する方針を打ち出し、投手陣では、衰えの見え始めていた真田重蔵投手、藤村隆男投手、梶岡忠義投手に代えて、若手の渡辺省三投手、大崎三男投手、西村一孔投手、小山正明投手を起用し、先発ローテーション制を導入するほか、野手では、投手から転向した田宮謙次郎選手を4番に据え、サードに若手の三宅秀史選手を抜擢したそうですが、
この采配に対し、ベテランは激しく反発し、特に、藤村さんは、試合中に公然と監督命令に逆らったそうで、
(真田重蔵さんは、後に、「30歳以下の選手しか使わん、得意の球を若い者に教えてやってくれと言われて冗談ではないと思った」と語っているのですが、奥井成一さんは「(岸監督は)若い者しか使わないと言ったのではなく、調子のいい者を使っていくと言った」と証言しています)
岸監督は、1955年のシーズン途中、5月下旬に、わずか33試合16勝17敗で更迭(表向きは病気療養のための休養)となったのだそうです。
(ちなみに、岸監督の采配は揶揄(やゆ)されることが多かったものの、岸監督に起用された、渡辺省三投手、小山正明投手、田宮謙次郎選手、三宅秀史選手など多くの若手選手は、後に球界で名選手になっています)
「藤村富美男は阪神の兼任監督に就任するもナインの反感を買っていた!」に続く