1964年には、最後まで首位打者争いをし、最終的には、初の打率3割(打率3割1分8厘で打撃成績3位)をマークして、阪神タイガースの奇跡の逆転優勝に大きく貢献した、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、その吉田さんは、この優勝はジーン・バッキー投手の活躍なくしてはあり得なかったと語っています。今回は、そんな吉田さんとバッキー投手の関係を物語るエピソードをご紹介します。

「吉田義男は1964年に初の3割を記録し阪神優勝に大きく貢献していた!」からの続き

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ジーン・バッキーは近鉄に金銭トレードされた後引退していた

ジーン・バッキー投手は、1964年、29勝9敗、防御率1.89で、最多勝と最優秀防御率の2冠に輝き、阪神の優勝に大きく貢献すると、その後も、1965年は18勝14敗、1966年は14勝16敗、1967年は18勝12敗、1968年は13勝14敗と、5年連続で2桁勝利を続けていたのですが、

1968年9月18日の巨人戦で、王貞治選手への危険球で乱闘騒ぎとなり、巨人の選手数名と荒川博コーチに襲いかかられたのに対抗して、荒川コーチの顔面にパンチを食らわせた際、右手の親指の付け根を複雑骨折してしまい、そのままシーズンを終わると、この登板が阪神での最後の登板となり、シーズン終了後には、近鉄に金銭トレード。

そして、翌年の1969年には、複雑骨折は完治したものの、近鉄では、好投が報われずなかなか勝てない中、7月3日のロッテオリオンズ戦で三塁線の打球処理の際に腰を傷めてしまい、8月には椎間板ヘルニアの手術をするも、この影響で復活することができず、解雇されてしまったそうで、同年9月25日、失意のうちにアメリカに帰国すると、11月25日、現役を引退していました。

渡米した際にジーン・バッキーに電話していた

そんなバッキーさんと吉田さんは、現役時代、仲が良かったそうで、吉田さんが、1978年、阪神タイガースの監督第1期を終え、渡米した際には、電話帳を調べて、バッキーさんに電話をしたことがあったそうで、

(バッキーさんが、ルイジアナ州のバトンルージュに住んでいることを、吉田さんは知っていたことから、すぐに電話番号が分かったそうです)

その際、吉田さんは、ニューヨークの友人に頼み、英語で、

今、ここに、君の友達がいるんだ

と、告げてもらうと、

バッキーさんは、阪神時代、一番懇意にしていたという、山内一弘さんの名前を挙げ、

ヤマウチか?

と、聞いてきたそうですが、違うと言うと、

じゃあ、ヨシダだな

と、分かったのだそうです。

アメリカでジーン・バッキーと再会すると意気投合していた

こうして、バッキーさんと再会した吉田さんは、それまでにも、バッキーさんからは何度かアメリカから電話をもらっており、看護師の奥さんと6人の子どもたちと幸せに暮らしていることは知っていたそうですが

あらためて近況を尋ねると、バッキーさんは、中学校で先生をしながらナイトクラブも経営していると聞いたそうで、

(バッキーさんは、アメリカに帰ってからは、中学校で教師をし、ガソリンエンジンの構造を教えるほか、木で物を作ったり、皮細工なども教え、さらには、牧場を経営していたこともあったそうです)

吉田さんが、

それじゃあ、莫大な収入をどうやってごまかすか、頭が痛いやろ?

と、茶化しながら尋ねると、

バッキーさんは、

床の下にカメを隠して、そこに札束をドンドン投げ込むのさ

と、答えたそうで、

吉田さんが、

へえー。 日本で覚えたやり方かい?

と、乗ると、

バッキーさんも、

もちろん、そうや

と、返したといいます(笑)

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ジーン・バッキーは2019年に他界していた

そんなバッキーさんは、日本の野球界を愛し、特に阪神をこよなく愛していたそうで、その後も、仕事の関係でたびたび日本を訪れ、1983年の阪神対巨人OB戦(甲子園)の時も来日していたそうですが、

2014年頃には、日本時代に受けた椎間板ヘルニアの手術箇所が痛み出し、長い距離の歩行が難しくなるなど、体が不自由になったそうで、

吉田(義男)さん、小山(正明)さん、杉下(茂)さんに会いたい

できればもう一度、この目で甲子園を見てみたい(2018年の取材にて)

と、願い続けていたそうですが、

叶わず、2019年、出血性脳卒中により、82歳で他界されています。

「吉田義男は後輩の村山実が次期監督に就任し心穏やかではなかった!」に続く

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