1957年、阪神の監督を解任され、代打要員として現役選手への復帰を告げられると、翌年の1958年には現役復帰するも、生涯打率3割を保つため、11月末に現役を引退した、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんは、引退後は、国鉄スワローズで一軍打撃コーチ、東映フライヤーズで一軍打撃コーチと二軍監督に就任するほか、俳優としても活動していたそうですが、晩年は糖尿病で闘病生活を送り、1992年5月28日、糖尿病による腎不全のため、75歳で他界されています。

「藤村富美男の現役(プロ野球選手)時代の成績は?二刀流だった!」からの続き

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国鉄スワローズで一軍打撃コーチ、東映フライヤーズで一軍打撃コーチと二軍監督

1958年に阪神タイガースで現役を引退した藤村さんは、1959~1962年、読売テレビで初代解説者を務めると、1963年には、同郷の浜崎真二監督に請われて国鉄スワローズ一軍打撃コーチ、1964~1965年と1968年には、水原茂監督に請われて東映フライヤーズで一軍打撃コーチ、1967年には、東映フライヤーズで二軍監督に就任しているのですが、

1965年、東映フライヤーズで一軍監督を務めていた時には、後に強打者となる大杉勝男選手が入団テストを受けにきた際、水原監督が粗削りで空振りが目立つ大杉選手のバッティングを見て難色を示していたところ、打撃コーチだった藤村さんが、大杉選手に非凡な才能をあることを見抜き、

もし東映が獲らないのでしたら、私が阪神に大杉を獲る様に勧めますが、どうしますか?

と、水原さんに進言し、大杉さんの入団を促したそうです。

時代劇「新・必殺仕置人」にレギュラー出演するなど俳優としても活動

その後、1968年に東映フライヤーズを退団した藤村さんは、球界から遠ざかり、藤村さんのファンの経営する水道工事会社に顧問として勤務するかたわら、1969年には近畿放送解説者、大阪スポーツ評論家を務めると、

1977年には、ドスのきいた声を活かし、テレビ時代劇「新・必殺仕置人」で、元締・虎役でレギュラー出演するほか、1979年には、映画「その後の仁義なき戦い」に出演し、俳優としても活動しています。


「新必殺仕置人」で、元締・虎に扮する藤村さん。

阪神タイガースの球団社長付アドバイザーも務めていた

ただ、藤村さんは、完全に阪神タイガースと縁が切れたわけではなく、1977年には、非常勤の球団社長付きアドバイザーに就任し、1985年のタイガース優勝時には、大阪スポーツ専属評論家として日刊スポーツに優勝コメントを寄せるほか、

同年、甲子園を訪問した際には、川藤幸三選手に対し、

テレビで見たが、お前ベンチで偉そうにしているな。それでいい。タイガースの歴史を作ってきたのは大学出のスターじゃない。お前ら補欠の人間だ。だからそのまま偉そうにしておけ

と、激励しています。

(川藤選手は、この話を直立不動で聞いていたそうです)

後藤次男監督の時には総監督になる予定だった

ちなみに、1977年11月2日には、後藤次男さんが阪神の監督に就任しているのですが、実は、阪神球団は藤村さんを総監督に据える構想を描き、後藤さんに監督を要請する前に、藤村さんに要請し、藤村さんからの承諾を取り付けていたそうですが、

1966年の藤本定義総監督&杉下茂監督という二頭政治の失敗を目の当たりにしていた後藤さんが、「それなら引き受けられない」と反発したことから、長田睦夫球団社長は、「藤村は現場には一切口を出さない。私的な相談役」と、後藤さんをなだめ、藤村さんは無報酬で非常勤の球団社長付アドバイザーとなったのだそうです。

(ただ、藤村さんは、1984年のインタビューで、「(タイガースから)顧問としていくばくかのお金をいただいている」と語っています)

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糖尿病による腎不全のため75歳で他界

そんな藤村さんは、晩年、糖尿病のせいで視力を失い(病院嫌いだったため、糖尿病が分かった時にはかなりひどい状態だったそうです)、1988年以降は、病院や介護施設で闘病生活を送っていたそうですが、

1992年5月28日、兵庫県神戸市中央区の神鋼記念病院で、糖尿病による腎不全のため、75歳で他界されたそうです。

ちなみに、長男の哲也さんは、藤村さんの最期について、

ベッドの横のテレビに阪神戦が映っていた。最後まで聞いていたんだと思います

と、語っています。

「藤村富美男の息子2人と孫3人は甲子園に出場していた!」に続く

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