高校3年生の時(1952年11月)、大阪(阪神)タイガースの入団テストを受けるも、2ヶ月以上も合否の連絡が来ず、不安にかられて、翌年の1953年2月、洋松ロビンスの入団テストも受けたという、小山正明(こやま まさあき)さんですが、入団テストから5ヶ月後に阪神から合格通知が届き、練習生として阪神に入団すると、メキメキと頭角を現し、練習生⇒二軍⇒一軍と昇格したといいます。

「小山正明は特別に1人で阪神の入団テストを受けていた!」からの続き

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洋松ロビンスも人数制限で不合格

大阪(阪神)タイガースからは入団テストから2ヶ月以上も合否の連絡が来ず、不安になって、洋松ロビンス(現・横浜DeNAベイスターズ)の入団テストも受けると、青田昇選手らに速球を褒められたという小山さんは、それから、連日、洋松ロビンスのキャンプに通ったそうですが、

同年3月2日、キャンプの打ち上げが行われた際、新田恭一総監督から、「(残念そうに)君を獲りたいんだが・・・」と不合格を言い渡されてしまったそうです。

(洋松は、大洋ホエールズと松竹ロビンスが合併して2月5日に発足したばかりの球団で、67名の選手を抱え、野球協約上の選手制限45名から20名以上も選手が多すぎる状況だったそうです)

入団テストから5ヶ月後に阪神から合格通知を受け取る

しかし、ちょうどその夜、帰宅すると、大阪(阪神)タイガースからハガキが届いていたそうで、そこには、なんと、「入団決定に付 三月四日来社されたし」と、書いてあったそうで、小山さんは、入団テストを受けてから、実に5ヶ月後に合格通知を受けたのでした。

(小山さんはその翌日、洋松ロビンスの宿舎を訪問し、阪神へ入団が決まったことを伝えたそうですが、新田総監督は「ぜひ阪神でがんばりなさい」と言って、一緒に喜んでくれたのだそうです)

打撃投手も兼ねた練習生として大阪(阪神)タイガースに入団

ちなみに、阪神は、小山さんが洋松ロビンスの入団テストを受けたことを知って慌てて採用通知を送っていたそうで、

当時の監督だった松木謙治郎さんは、著書「タイガースの生いたち」で、小山さんを採用した理由について、

制球力が良かったので練習用投手には使えると考えた

と、綴っており、

小山さんは、打撃投手を兼ねた練習生として、契約金なしの月給5000円で阪神と契約を結んだのだそうです。

(球団女子事務員の8000円より安かったそうです)


タイガースの生いたち

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一軍昇格後も当初は藤村富美男など主力選手の打撃投手を務めていた

さておき、小山さんは、1953年シーズンに入ると、練習生から二軍選手に昇格し、同年8月には、近鉄戦で完投勝利を収めたそうで、この投球が評価され、一軍に昇格すると、レギュラー陣の打撃投手を務めたそうですが、

初代ミスタータイガースと称された藤村富美男選手をはじめ、金田正泰選手、後藤次男選手など、主力選手に指名されることが多く、ストライクが入らないと怒鳴られたそうで、

特に藤村選手は怖く、怒鳴ったりはしなかったものの、2つ3つ外れると、黙って隣のケージに移ってしまったそうで、小山さんにはとても堪(こた)えたそうです。

ちなみに、小山さんは、そんな阪神入団当時、クビにならないよう必死だったそうで、

タイガースに入団した当時は、軍服着て兵隊生活を送ったという人が、監督の松木(謙治郎)さんでしょ、藤村(富美男)さんでしょ、渡辺博之さん、徳網(茂)さん、藤村弟(隆男)さん、真田(重男)さん。兵役の経験者が先輩に何人もいたわけ。だから、厳しいわね。

と、語っています。

「小山正明はストレートだけで主力投手となっていた!」に続く

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