1966年1月、巨人へのトレード話が上がるも、阪急・小林米三オーナーがきっぱり否定したことから、阪急残留が決まった、米田哲也(よねだ てつや)さんは、その後も、快進撃を続けると、1971年には史上5人目の通算300勝を達成するのですが、入団20年目となる1975年には、登板機会が減り、2軍落ちしたことで、金田正一さんの通算400勝を目指していたことから、出場機会を求めて他球団への移籍を申し出たといいます。

「米田哲也の巨人トレードは小林米三オーナーの断固拒否で決着していた!」からの続き

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1971年には通算300勝を達成

1966年1月、巨人へのトレード話が上がるも、阪急・小林米三オーナーがきっぱり否定したことで阪急残留が決まった米田さんは、同年には25勝で最多勝、1968年には自己最多の29勝、1971年には史上5人目の通算300勝を達成し、阪急の5度のリーグ制覇(1967~1969年、1971~1972年)に大きく貢献。

また、18年目のシーズンとなる1973年も、15勝3敗、防御率2.47(最優秀防御率)という成績を残します。

20年目のシーズンには出場機会を求めて移籍を希望

ただ、そんな米田さんも、20年目のシーズンとなる1975年(37歳)には、前年(1974年)ドラフト1位入団の山口高志投手や、広島カープから移籍してきた白石静生投手ほか、戸田善紀投手、竹村一義投手らの成長で登板機会が減り、6月7日に2軍落ち。

そんな中、金田正一さんの400勝を目指していた米田さんは、登板機会を求めて、6月10日、自ら阪急球団に移籍を申し出たそうで、

米田さんは、

金田さんの記録(400勝)にも挑戦したいが、今の状況ではチャンスがない。セ・リーグの投手力の弱いチームなら、まだ働ける場所があると考えた。球団には〝最後の花〟を咲かせるため無理を聞いてほしいとお願いした

と、語っています。

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阪急球団は来季よりコーチとして残留を希望も最終的にはトレードを了承

しかし、阪急球団は、米田さんには来季からコーチとして若手の指導に当たって欲しいと慰留。それでも、その後、何度も話し合いが行われると、ついに阪急球団が折れ、

6月17日、会見で、森薫オーナーが、

20年にわたって阪急一筋に生き、多くの功績を残した彼に報いるため、本人の意思を尊重することが一番良い道と判断しました

と、米田さんの退団を発表したのでした。

(これを聞いていた米田さんは大粒の涙をこぼしたといいます)

ちなみに、10年前、米田さんに巨人へのトレード話が上がった際、完全否定した、当時の小林米三オーナーは1969年2月10日、癌(ガン)性腹膜炎のため、59歳という若さで他界されています。

「米田哲也は皆川睦雄と反りが合わず阪神を退団していた!」に続く

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