1958年11月25日、「野球にかける情熱が無くなった」ことを理由に現役引退を発表した、西沢道夫(にしざわ みちお)さんは、その後は、解説者をしていたのですが、1963年に、古巣・中日でヘッドコーチに就任すると、翌1964年には、シーズン途中で監督に就任し、最下位だった中日を2位にまで浮上させています。ただ、1968年、十二指腸潰瘍で、突然、辞任すると、1970年には脳血栓で倒れ、闘病生活の中、1977年に他界されています。
「西沢道夫の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!二刀流だった?」からの続き
中日のヘッドコーチ~シーズン途中から成績不振で休養した杉浦清監督の後任監督に
西沢さんは、1959年3月15日、南海戦での試合を最後に現役を引退すると、コーチや監督など指導者としての球界復帰は否定し、TBS(テレビ・ラジオ)の解説者として活動していたのですが、
1963年、古巣・中日ドラゴンズのヘッドコーチに就任すると、1964年6月9日には、成績不振(最下位)で休養した杉浦清監督の監督代行を務めています。(その後、正式に監督に就任しています)
ちなみに、監督就任第一声は、
選手のご両親を思い浮かべてノックを打ちます
だったそうです。
(中日は、1963年からスカイブルーのユニホームが使用されていたそうですが、西沢さんの意向により撤廃され、1962年以前の紺色主体で赤の縁取りがされたデザインに戻され、1968年まで続いたそうです)
1番中利夫、2番高木守道を固定し、得点力を大幅に向上させていた
そんな西沢さんは、1964年は、結局、最下位から浮上できなかったものの、翌1965年には、恩師の坪内道典さんをヘッドコーチに招聘し、1番に中利夫選手、2番に高木守道選手を固定すると、開幕から投打ともに好調で、
V9時代に突入した巨人とは13ゲーム離されるものの、2位に浮上し、以降1967年まで3年連続2位となっています。
二軍でくすぶっていた小川健太郎投手を見出す
また、杉浦清前監督と折り合いが悪く、二軍でくすぶっていた1964年入団の小川健太郎投手を、坪内ヘッドコーチがすぐさま1軍に上げると、この年は、中継ぎ中心の登板で、防御率4.50も、
翌1965年には、シーズン当初から先発ローテーションに入って白星を重ね、最終的には、17勝9敗、防御率2.43(リーグ10位)、1966年も、17勝11敗、防御率は2.19、1967年には、29勝12敗、防御率2.51で、最多勝を獲得するほか、沢村賞、ベストナインにも選出されています。
十二指腸潰瘍で突然の監督辞任
さておき、3年連続2位の成績を収めていた西沢さんですが、1967年5月18日に病気のため休養すると、その後、復帰するも、同年12月26日のコーチ会議を最後に自宅に引きこもり、翌1968年の球団の新年行事もすべて欠席し、
(この年も指揮を執る予定になっていたそうですが)キャンプイン直前の1月17日、十二指腸潰瘍で突然の辞任を発表しています。
(西沢さんの辞任は、病気に加え、西沢さんを支援していた役員の退陣も背景にあったと言われています)
心筋梗塞による心不全で56歳で他界
そして、同年には、TBSの解説者に復帰するも、1970年には、脳血栓で倒れ、一命は取り留めたものの、手足が不自由になるなど、車椅子生活を余儀なくされて、解説者生命も絶たれ、以降、闘病生活を送ると、
1977年12月18日午後5時30分、入院中の立川市の川野病院にて、心筋梗塞による心不全で、56歳という若さで他界されています。
(1977年には、不自由な体を押して中日の浜松キャンプを訪問するほか、オールスターゲームに行われた殿堂入り表彰式にも車椅子で出席していたそうです)
監督時代の成績
最後に、西沢さんの監督時代の成績をご紹介します。
と、途中から指揮した1年目を除き、シーズン通して指揮した3年間は全て2位となっています。
さて、いかがでしたでしょうか。
西沢道夫さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?
- 「西沢道夫」なのに愛称はなぜ「文ちゃん」?
- 14歳の時に大日本野球連盟名古屋協会(後の中日ドラゴンズ)の入団テストに合格
- 16歳と4日で公式戦初登板を果たす
- プロ4年目には20勝
- 当時は日没で試合が強制終了となっていた
- 名古屋軍(中日)は1回表から先制のチャンスを掴むもあえなくスリーアウトに
- 名古屋軍(中日)が2回表に1点を先制
- 名古屋軍(中日)は3回表に濃人渉のエラーで1点を追加
- 快調なピッチングを続けるも6回裏に2対2の同点に追いつかれる
- 7回裏には村松長太郎の左中間ヒットを皮切りに4対2と逆転される
- 名古屋軍(中日)が9回表に古川清蔵の2ランホームランで4対4の同点に追いつく
- 大洋の「鉄腕」野口二郎投手と行き詰まる投手戦を展開していた
- 26回表二死一塁の場面で西沢道夫が右中間へ長打を放つも一走の野口正明がホームでタッチアウトに
- 27回裏に佐藤武夫捕手に二塁打を打たれるも三塁を回ったところで転倒しタッチアウトにしていた
- 延長28回で日没のためゲームセット(引き分け)
- 延長28回も試合時間は3時間47分とさほど長時間には至っていなかった
- この年にはノーヒットノーランも達成していた
- 応召中に肩を痛め、復員後は投手として思うような成績が残せなかった
- 中部日本軍ではチーム内で内紛があり居づらくなっていた
- 元同僚で先輩の坪内道典監督から誘われ新球団・ゴールドスターに移籍し、打者として再出発を図る
- 阪神の別当薫選手の打撃を参考にしていた
- 「大映」に買収されたことをきっかけに「金星スターズ」を退団
- 天知俊一監督からの熱戦な誘いで中日ドラゴンズに復帰していた
- 1952年には首位打者と打点王の2冠王
- 低迷していた中日を立て直すべく天知俊一監督に復帰を要請されていた
- 中日は2年連続2位の天知俊一監督が辞任し3位となっていた
- 中日ナインに懇願され監督に就任した天知俊一のもと、中日は初のリーグ優勝&日本一に輝いていた
- 天知俊一が中日ナインから監督復帰を懇願されるほど人望を集めた理由とは?
- 野口明新監督から一塁から外野へのコンバートを通告され失踪していた
- 打率2割7分5厘と余力が感じられる中、自身で現役引退を決意?
- 杉下茂は中日が若返りのため当時38歳の西沢道夫に辞めてもらう方針だったと語っていた
- 引退は西沢道夫本人が中日球団より先に表明していた
- 引退後はラジオとテレビの解説者として契約したことを明かしていた
- 監督・コーチ就任についてはきっぱり否定していた
- プロ野球選手(現役)時代の投手成績
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- タイトルは首位打者1回、打点王1回、最多出塁数1回
- ノーヒットノーラン1回、シーズン最多満塁本塁打ほか記録多数
- 野球殿堂競技者表彰、ベストナイン、オールスターMVPなど受賞
- 中日のヘッドコーチ~シーズン途中から成績不振で休養した杉浦清監督の後任監督に
- 1番中利夫、2番高木守道を固定し、得点力を大幅に向上させていた
- 二軍でくすぶっていた小川健太郎投手を見出す
- 十二指腸潰瘍で突然の監督辞任
- 心筋梗塞による心不全で56歳で他界
- 監督時代の成績
について、まとめてみました。
「もう思い残すことはない。いつ死んでもいい」と語っていたという西沢さん。
西沢さんのご冥福をお祈りいたします。
「西沢道夫(初代Mr.ドラゴンズ)は16歳で公式戦初登板していた!」