家賃1万3000円の木造二間のアパートに住み、日本での生活をスタートさせた、ジーン・バッキー(gene bacque)さんは、入団当初はコントロールが悪く、2年目のオフには、貧打戦を打開したい阪神球団の方針で解雇されそうになるも、新しく投手コーチに就任した杉下茂さんの訴えにより解雇を免れると、杉下さんの徹底指導でみるみるうちに才能を開花させ、1964年には、29勝9敗(最多勝)、防御率1.89(最優秀防御率)の活躍で、阪神のリーグ優勝に大きく貢献します。

「ジーン・バッキーは当初は甲子園球場裏の木造二間のアパート暮らしだった!」からの続き

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2年目オフに解雇されるところだった

バッキーさんは、入団当初はコントロールが悪く、途中入団した1年目の1962年は1勝も出来ず(3敗)、翌1963年も8勝(5敗)止まりだったそうで、

(この間、バッキーさんは、梶岡忠義投手コーチの指導を熱心に受けるほか、渡辺省三投手や「針の穴を通す」と言われた制球力の小山正明投手の投球を食い入るように見て研究を重ねたそうです)

同年(1963年)オフ、阪神は、貧打戦を打開するため、大毎オリオンズの主砲・山内一弘選手をエース・小山正明投手とのトレードで獲得しているのですが(「世紀のトレード」と言われたそうです)、さらには、外国人スラッガーの獲得を目論み、バッキーさんも解雇しようとしていたそうです。

新投手コーチ・杉下茂の直談判により解雇を免れていた

しかし、1963年オフに、阪神の投手コーチに就任した、「フォークの神様」こと杉下茂さんが、

小山に加えてもう1人欠けたら、投手陣をやり繰りできない。バッキーは残してくれ

と、フロントに直談判したことから、バッキーさんは解雇を免れたのだそうです。

投手コーチの杉下茂に徹底指導を受ける

その後、バッキーさんは、杉下さんにより、下半身を鍛えるべく散々走らされるほか、身体の使い方から投球方法まで徹底的に指導されたそうですが、

結果、踏み出す左足の突っ張りがなくなってフォームに粘りが生まれ、制球が安定すると、徐々に、長い腕を鞭のように使えるようになり、球の出どころが分かりにくい独特の「スネーク投法」が出来上がっていったのだそうです。

1964年には、最多勝、最優秀防御率、沢村賞を獲得し阪神のリーグ優勝に大きく貢献

すると、3年目の1964年には、29勝9敗、防御率1.89で、最多勝、最優秀防御率、沢村賞(外国人初)を獲得するなど、村山実投手とともに二枚看板のエースとして、チームの2年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献したのでした。

また、この年のMVP(最優秀選手)は、55本塁打の日本新記録を打ち立てた王貞治選手が獲得したのですが、

翌年の1965年には、王さんに、

バッキーさんが沢村賞とMVPを獲るべきだった

と、言われたそうで、

バッキーさんは、

でも王さんはあの年、55本塁打を打っていた。文句なくMVPは王さんだと思うけどね。王さん本人からそう言ってもらえて、うれしかったのを覚えている。

と、語っています。

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通算100勝を達成

そんなバッキーさんの勢いは止まらず、翌1965年6月28日の巨人戦ではノーヒットノーランを達成すると(外国人初)、最終的には18勝14敗、

1966年は14勝16敗、1967年は18勝12敗、1968年は13勝14敗と、5年連続で2桁勝利を続け、1968年8月27日の広島戦で日本通算100勝を成し遂げたのでした。

「ジーン・バッキーは努力家で阪神ナインも親身になっていた!」に続く

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