1946年5月、3歳の時、東京劇場で上演された初舞台「助六」では、舞台に出るのを嫌がり、お母さんにしがみついて泣きわめいていたという、二代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんですが、終戦後の食糧難の中、着実に子役としてキャリアを積むと、7歳の時には、六代目市川染五郎を襲名したそうです。
「松本白鸚(2代目)は3歳の時「助六」で初舞台も嫌で泣きわめいていた!」からの続き
戦後は食糧難だった
終戦後は食糧難で、ばあやが近郊の農家に行って、着物などと食べ物を交換してもらっていたそうで、毎日、かぼちゃばかりの時があり、ばあやは、「甘いかぼちゃでご飯にしましょ」と言ったそうですが、全く甘くなかったそうです。
また、よく出たおかずは、カツオを煮たナマリ(加工品)だったそうで、しばらくはこのような食事が続いたそうです。
(ばあやは村杉たけさんといい、初代中村吉右衛門さんの家(お母さんの実家)で働いていたことがあったため、お母さんが嫁ぐ時に、一緒に来てもらったそうで、白鸚さんが幼い頃は、お父さんのマネージャーとして働くお母さんの代わりに、このばあやが母親代わりとなって、白鸚さんたち3人兄弟の身の回りの世話をしてくれたのだそうです)
子役として「靭猿」「夏祭浪花鑑」「幡随院長兵衛」「盛綱陣屋」などに出演
そんな中、白鸚さんは、1947年には、子役として、「靭猿(うつぼざる)」の小猿役、「夏祭浪花鑑(なつまつり なにわ かがみ)」のせがれ市松役、「幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)」の長松役で舞台に出演すると、
秋には、東劇で「盛綱陣屋」で小三郎役をやったそうですが、鎧を着て刀を差し、兜(かぶと)を持つのがうれしくて、毎日、早く支度をして、出番を今か今かと待っていたそうです。
(花道では見得(みえ)を切ったそうで、それがお客さんにウケていたそうです)
子役として順調にキャリアを積んでいた
また、翌年の1948年11月には、母方の祖父・初代中村吉右衛門さんが清正役を演じる演目で秀頼役を演じるほか、
(「二条城の清正」「蔚山城(うるさんじょう)の清正」「熊本城の清正」「清正誠忠禄」などがあり、そのどれかは不明ですが、吉右衛門さんは、清正を好んで演じていたそうで、「清正役者」と呼ばれていたそうです)
「かつお売り」で踊りの初舞台も踏むと、藤間政弥さんの引退舞台「山姥(やまんば)」では、金太郎(怪童丸)役で踊りも披露したそうで、
お父さんは、そんな白鸚さんについて、育児日記に、
君の舞台のおちつきに皆驚ろく、お父さんも君に負けづに舞台にはげむ(原文のまま)
と、綴っており、
白鸚さんは、子役として順調にキャリアを積んだのだそうです。
7歳の時に六代目市川染五郎を襲名
そして、1949年1月、父方の祖父・七代目松本幸四郎さんが他界されると、これを受けて、同年9月、白鸚さんは、東京劇場で行われた「ひらかな盛衰記・逆櫓」で、遠見の樋口役を演じて、六代目市川染五郎を襲名します。
ちなみに、11月には、「盛綱陣屋」で、盛綱の弟・高綱の子どもである、小四郎役が回ってきたそうですが、
お父さんからは、常に、芸について、
弟子は師匠の悪いところを真似て、いいところをとらない。自分で覚えろ
と、言われていたそうで、あまり教えてもらえなかったのだそうです。
「松本白鸚(2代目)は小中高とイジメを受け続けていた!」に続く