由緒正しい歌舞伎の名門に生まれ、幼少期は両親の愛情を一心に受けて育ったという、二代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、1946年、3歳の時、東京劇場で上演された「助六」の外郎売のせがれ役で初舞台を踏むのですが、舞台に出るのを嫌がり、お母さんにしがみついて泣きわめいていたといいます。
「松本白鸚(2代目)は弟・中村吉右衛門(2代目)と不仲だった?」からの続き
幼少期は両親から可愛がられて育っていた
白鸚さんは、八代目・松本幸四郎(初代・松本白鸚)さんと、初代・中村吉右衛門さんの娘・正子さんのもと、長男として誕生すると(弟1人妹1人の3人兄弟)、
お父さんとお母さんには、生まれて11日目の8月30日から、「吾兒の生立(わがこのおいたち)」という育児日記に、事細かく成長の様子や自分たちの感情を綴られるなど、とても可愛がられて育ったそうです。
誕生時は大きな赤ちゃんだった
ちなみに、白鸚さんは生まれた時、身長54センチ、体重は920匁(もんめ)(3450グラム)と比較的大きな赤ちゃんだったため、難産だったそうですが、
お母さんは、
看護婦さんに、大きな男の赤ちゃんですよと言われた時、今までのつらい死ぬ程の苦しみがいっぺんに飛んでいってしまいました。しばらくして、あなたは真っ赤なお顔をしてお母様の横におねんねしたのよ。
お父様がいらっしゃった時、そばに人が居なかったら弱虫の母様は泣いてしまったでしょう。母様は幸せ者よ。世界中の幸福者よ。又、あなたも幸せね、こんないい父様を持って。母
お父さんも、
僕は君の生まれる日、築地の家でひる食をすませたところに、病院から「男の子ですよ」と只(ただ)一言の報だ、早速神様へ全部お燈火を上げた。
二階の机の前に僕の生母の写真を出した。ぽろぽろ涙が出た。病院へ行くまで母と君の健全な事のみであった。着いて母子の顔を見てほっとして君の母に「有難う」と言ったよ。父
と、育児日記に喜びを綴っています。
戦争中に一家で日光に疎開すると、終戦後は東京の家が焼け落ちていた
そんな中、次第に戦時色(太平洋戦争)が濃くなり、1944年11月1日には、B29(長距離爆撃機)が東京の上空に現れるようになると、一家は日光に疎開したそうで、
1945年8月15日に終戦を迎え、同年10月末、東京に戻ったそうですが、家は焼けて失くなってしまい、東京の久我山に家を借りたそうです。
3歳の時「助六」の外郎売のせがれ役で初舞台を踏み二代目松本金太郎を襲名するも泣きわめいていた
それでも、同年11月には、両祖父(七代目松本幸四郎さんと初代中村吉右衛門さん)が東京・築地の東京劇場に出演するなど、歌舞伎も戦後の焼け跡の中で、復活の兆しを見せ始めると、
白鸚さんも、1946年5月、3歳の時、東京劇場で行われた「助六」の外郎売(ういろううり)のせがれ役で(外郎売役のお父さんに手を引かれて)初舞台を踏み、この時、二代目松本金太郎を襲名するのですが、
(お父さんのほか、両祖父の七代目松本幸四郎さん(助六役)、初代中村吉右衛門さん(意休役)、六代目尾上菊五郎さん(揚巻役)が共演するなど、豪華な顔ぶれだったそうです)
まだ3歳だった白鸚さんは、何千人もの観客を前に、舞台を照らす煌々としたライトが怖く、出番間近になると舞台に出るのを嫌がり、お母さんにしがみついて泣きわめいたといいます。
(涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をお母さんの胸元にすりつけて泣いたことから、後にお母さんから、着物が汚れてしまい困ってしまったと、聞かされたそうです)
「松本白鸚(2代目)は7歳で市川染五郎(6代目)を襲名していた!」に続く
白鸚さん(左)と初代中村吉右衛門さん(右)。