印刷会社に務めるお父さんのもと、4人兄弟の長男として誕生したという、ちばてつやさんは、生まれてほどなくして、お父さんの仕事の関係で満州国・奉天に渡ると、当初は何不自由なく暮らしていたそうですが、やがて、太平洋戦争で日本が敗戦すると、それまで優しかった中国人たちが、一転、暴徒と化して暴れまわったことから、身の危険を感じたお父さんとともに社宅を飛び出し、安全な場所を求め転々としたといいます。

「ちばてつやの弟はちばあきおほか全員漫画関係者!」からの続き

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幼少期は父親の仕事の関係で満州国で暮らしていた

ちばさんは、印刷会社に勤める父・正彌さんのもと、1939年1月11日、4人兄弟の長男として、東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区)明石町の聖路加国際病院で誕生したそうですが、同年11月に日本を離れ、朝鮮半島を経て、1941年1月、2歳の時に満州国に渡り、奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)という所で暮らしたそうです。

ちなみに、奉天には、お父さんが勤める印刷工場があり、3メートルもの高い煉瓦塀(れんがべい)で囲まれた印刷工場の敷地の中に、ちばさん一家が暮らす社宅のほか、日用品が買える商店、大きな入浴施設などもあり(日本人専用のコミュニティが作られていたそうです)、

何不自由なく過ごすことができたそうですが、冬はものすごく寒く、零下20度になったことから、外では遊べず、家で本を読むか、絵を描いて過ごすしかなかったそうで、

ちばさんは、

幸い、うちには本がたくさんありました。父親が印刷会社に勤めていまして、その前は両親とも主婦の友社にいたんです。本が好きな文学少年・文学少女だったんでしょうね。だから、私も本はよく読んでいたけれど、漫画は知らなかった

と、語っています。

優しかった中国人が次第に冷たい雰囲気になっていくのを感じていた

そんなちばさんは放浪癖のある子供だったそうで、時々、煉瓦塀の外に抜け出して、中国人の街をフラフラしていると、中国人が、「ほら、これ食べな」と食べ物をくれたりしていたそうですが、

(幼いちばさんにとっては、煉瓦塀で囲まれた印刷工場の敷地の中だけが「日本」だったそうです)

いつの頃からか、それまで優しくしてくれていた中国人たちが、野良犬でも見るような目で「あっちへ行け!」と言ったり、日本兵とすれ違った後、小さな声で「日本鬼子(リーベングイズ)」と日本人への蔑称(べっしょう)を言いながら後ろ指を差す姿を見るなど、周りの人たちが冷たい雰囲気になっていったのを感じたそうです。

(1945年には、満州を支配し続けていた日本の戦況が行き詰まり、中国人の間に、日本の敗戦が濃厚であることが徐々に伝わっていったのだそうです)

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太平洋戦争敗戦後、暴徒と化した中国人から逃げるため、安全な場所を求めて転々としていた

そして、1945年8月15日、日本の敗戦が伝えられると、中国人たちは、日本からの支配や、それまでの日本人に対する反発などから、奉天の街の中で暴動を起こし始めたそうで、

(当時、ちばさんはまだ6歳だったため、日本の敗戦という事態がよく飲み込めず、暴徒と化した中国人たちがこん棒や鎌を持って3メートルもある煉瓦塀をよじ登って印刷工場の敷地の中に入ってくるのを、社宅の外からぼーっと眺めていたそうで、お母さんに慌てて襟(えり)首をつかまれ家の中に引き入れられたそうです)

命の危機を感じたお父さんは、数日後、印刷工場の仲間たちと相談し、中国人たちが寝静まった頃合いを見計らって、より安全な場所を求めて社宅を抜け出すことにしたそうで、

警察署、駅の構内、ホテル、工場跡地、日本人学校の校舎など、夜中になると安全な場所を探して歩き回り、あちこちで夜を明かしたそうですが、安全な場所はなかなか見つからなかったそうです。

(ちばさんは4人兄弟なのですが、二番目の弟が2歳、一番下の弟は生まれたばかりという状況で、長男のちばさんとすぐ下の弟は親のリュックにつかまって、必死について行ったのだそうです)

「ちばてつやは少年時代に弟達のために漫画を描き始めていた!」に続く

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